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今も残る甲斐源氏ゆかりの地

※写真: ”花の寺” 放光寺
※写真: ”花の寺” 放光寺
平安初期の清和天皇の子孫が臣下となり源氏を称した清和源氏。なかでも有力であったのが、河内源氏を称し河内国に地盤を築いた源頼信だ。頼信は初めに甲斐守を称した人物でもあり、その子頼義も甲斐守に任ぜられているものの、甲斐国には赴いてはいないとされる。

また、頼義の子義光にも北杜市若神子の若神子城が居城であったとの伝承が残るものの、実際に甲斐国に入ってはいないと考えられている。しかし、義光の子には常陸佐竹氏へとつながる義業や、常陸国勝田郡武田郷に入った義清らがいた。

源義清には「武田氏系図」に「武田冠者」「甲斐国市河荘へ配流」との記述が残っている。当時の勢力争いとその子清光が乱暴をはたらいたとの訴えがあったことから、義清とその清光は常陸国から甲斐国に配流されたとされる。この義清の伝承が残る地が山梨県内にいくつかある。

甲斐源氏旧跡の碑(市川三郷町)

源義清は、新羅三郎義光の三男で天永年間(1110-13)に甲斐に入り、この地に居館を造り、49才頃甲斐の目代になったといわれる。義清が居館を構えたと伝えられる市川三郷町の平塩の岡には、明治18(1885)年郡長依田孝氏らによって三条実美揮毫の銅碑「甲斐源氏旧跡碑」が建てられている。

【市川三郷町ホームページ】
http://www.town.ichikawamisato.yamanashi.jp/50sightsee/30minamoto-takeda/kaigenji.html

義清神社(昭和町西条)

甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の子・刑部三郎義清を祀る神社であり、義清公が隠居後に住んだとされる館跡を社地としていると伝えている。神社には堀の一部が残り、境内西にある「おこんこん山」は義清公の墳墓と伝えられる。

【富士の国やまなし観光ネット】
https://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_3965.html

父・義清とともに配流された源清光は、現在の北杜市にある逸見(へみ)郷を本拠地とし逸見冠者と称していた。

清光寺(北杜市長坂町)

仁平元年(1151)、逸見玄源太清光が創建した信立寺が、清光の没後に清光寺に改められた。源清光が逸見郷を中心に勢力を広げ、国中を手中に収めて甲斐の国一円を統一し、甲斐源氏としての基礎を固めたことを伝えており、清光の墓もここにある。

【清光寺ホームページ】
https://seikouji.com/

清光の子はそれぞれ逸見氏、武田氏、安田氏、加賀美氏、平井氏、河内氏、奈胡氏、浅利氏、曾根氏、八代氏を名乗ることになるが、1128(大治3)年生まれの光長と信義は双子であったとも伝えられ、1140(保延6)年に光長(逸見光長)は逸見郷の逸見神社(北杜市大泉町)で、信義(武田信義)は武田八幡宮(韮崎市神山町)でそれぞれ元服したとされる。

逸見神社(北杜市大泉町)

北杜市大泉町にある建御名方命を祭神とする神社。源光長が元服式を挙げたとの伝承が残っている。

【山梨県神社庁ホームページ】
http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/6174

武田八幡宮(韮崎市神山町)

822年に嵯峨天皇の勅命により、武田王を祀るために創建。1140年に甲斐武田家の祖である源信義が元服して源信義から武田太郎信義と名を変えたことから甲斐武田家発祥の社とされる。甲斐武田家の氏神であり、国の重要文化財である三間社流造檜皮葺の本殿は、武田信玄公が再建したもの。

【武田八幡宮ホームページ】
https://takedahachimanguu.com/

甲斐武田家の祖とされる武田信義ゆかりの地は、武田八幡宮をはじめ武田信義館跡、菩提寺である願成寺と韮崎市内に複数残っており、韮崎市役所には武田信義の銅像が建っている。

願成寺(韮崎市神山町)

771(宝亀2)年創建。甲斐武田氏の祖・武田信義の懇請により京都七条の定朝系の仏師が造顕したとされる「木造阿弥陀如来及び両脇侍像」が国の指定重要文化財に指定されている。境内の五輪塔は武田信義公の墓所とされる。

【願成寺ホームページ】
http://ganjoji.jp/

放光寺」(甲州市塩山)

清光の三男(義清四男とも)安田義定が、1184(元歴元)年に一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立。鎌倉幕府創業に貢献するも、1194(建久5)年梶原氏らの謀反の嫌疑を受け放光寺にて自刃している。義定は八尺の阿弥陀三尊をはじめ大日如来、愛染明王、不動明王など多くの平安時代の仏像を勧請。仏師成朝を招いて放光寺金剛力士像、毘沙門天像をはじめ甲州の仏像を造ったとされる。放光寺は四季折々の花が咲き誇る花の寺。

【放光寺ホームページ】
http://www.hokoji.org/guidance.html

大福寺(中央市大鳥居)

『平家物語』に伝えられる壇ノ浦の戦いで活躍した遠矢の名手、三与一の1人として知られる、清光の十一子(九男とも)浅利与一(義遠、義成:資料によって名前が不統一)。大福寺に大小並ぶ多くの浅利一族の五輪塔の中心にある層塔が浅利与一の墓と伝えられている。また、船上から矢を射る姿の浅利与一銅像が豊富シルクの里公園に建っている。

※参考文献
・柴辻俊六『武田一族』新人物往来社
・笹本正治『山梨県の武田氏伝説』山梨日日新聞社

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  この記事を書いた人
KOBAYASHI Sayaka さん
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