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謎だらけの法隆寺 実は全焼していた!?

法隆寺は全焼した?

 現在見られる法隆寺の西院伽藍は、火災によって全焼し、再建されていた?この事案は多くの研究者などによって、長期に渡っての論争が続いていました。

 法隆寺の建立に関して、現在金堂に安置される薬師如来像の光背の銘文に記載があります。それによれば、推古十五年(607年)、聖徳太子が父である用明天皇の病気治癒祈願のために建立したと書かれています。

 また「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」によると、推古六年(598年)の建立とされ、更に『日本書紀』においては推古十四年(606年)とあります。

 古代の文献でもあり、建立年の違いは誤差の範囲とみてよいでしょう。

 ところが、推古十四年(6060)創建と書かれた『日本書紀』には、以下のような記述もあり、これが論争に火をつけました。時は天智九年(670年)4月、

「法隆寺災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえも)余ること無し」

とあり、要は法隆寺は全焼したと書かれてあったのです。

 その後に見つかった平安時代の複数の書物でも、法隆寺は和銅年間(708~714)に再建をしたという記述が見つかっています。『日本書紀』にあった全焼の記述と、平安時代の書物に合った再建の記述は、結論が出ないまま、長きに渡って論争が続いていたのです。

飛鳥様式での建築

 現在の法隆寺は再建されたものなのか否か、美術史や建築史の観点から見ても、結論がでませんでした。というのも、現在の法隆寺の伽藍は飛鳥時代の建築様式で建てられているからなんです。

 同じ斑鳩に建っている法輪寺や法起寺なども、金堂内部には飛鳥様式が見られるのですが、塔などは明らかに天武朝の様式が使われています。もし法隆寺が後の時代に再建されたのなら、別様式が取り入れられているはずと考えるのが正論でしょう。しかし現存の法隆寺は、高麗(こま)尺と呼ばれる大化の改新以前にしか使われていないモジュールで建てられているのです。

 法隆寺は金堂や五重塔で有名な西院伽藍と、8角形の夢殿などが建つ東院伽藍とに分かれます。東院に関しては、天平十一年(739)、都が平城京に移り廃墟同然だった聖徳太子一族が居住していた斑鳩宮跡を、安倍内親王があまりにしのびないと創立、となっていますので、論争には入っていません。

若草伽藍と西院伽藍

 現在の西院伽藍の南東に位置する場所に、若草伽藍と呼ばれる塔や金堂が建っていた跡が発見されています。法隆寺全焼に関する論争における主張の一つとして、斑鳩寺(いかるがでら)という名だった当時は、若草伽藍と西院が同時に建っていたという説がありました。そして若草伽藍だけが全焼して、西院が残ったという考えの人たちも多かったようです。

 しかし、昭和14年(1939)に行われた発掘調査によって、若草伽藍が建っていたとされる場所から、塔や金堂跡がはっきりと確認されました。しかも、それらは四天王寺式に配置されていたのです。さらに、西院伽藍・若草伽藍から引かれた中心線の方向から、両方の伽藍が同時に建つことは不可能であるということも判明しました。そして若草伽藍から発掘された瓦は、西院のものよりも古いという事もわかり、若草伽藍と西院が同時期に建っていたという説は崩れたのです。

 つまり、聖徳太子が創建したことで有名な法隆寺は、斑鳩寺という名の若草伽藍であって、その若草伽藍は焼失してしまっていたこと。そして、現在の法隆寺・西院は、何者かによって再建されたのだという事が結論付けられ、長きに渡って行なわれてきた論争に終止符が打たれたのでした。今のところ、この説が法隆寺の定説となってます。

未だ謎だらけ

 法隆寺が再建されたということに関しては一応の結論がでましたが、様々な謎は残ったままになっています。

 再建だったのなら、なぜ飛鳥時代様式で建てられたのでしょうか。誤差の範囲とは言いながら、再建の年数もはっきりとしていません。それに焼失後の再建なら、旧寺地に建てずに尾根を削ったり埋め立てをするなどの大規模な造成工事を行い、新しい寺地に建てたのはなぜでしょうか。そして、金堂の中央本尊に安置されている釈迦三尊像、新しい法隆寺は聖徳太子と一族の追悼のため建てられたはずなのになぜ? さらに、皇極2年(643)の蘇我入鹿の襲撃で山背大兄王を初めとする太子一族が滅んでしまい、関係者はいないのに、一体誰が西院を造営したのでしょうか…。まだまだ、多くの謎が残されていますね。

 特に五重塔には謎が多く、その一つが柱の下に埋められていた火葬された人骨。いったい誰の骨なのでしょうか?そして、塔の中にあったはずの舎利(= 遺骨のこと。)が無くなっていることも謎です。

 五重塔はインド仏教でいうストゥーパ(仏塔)を示しています。本来は仏陀の遺骨が納められるもので、法隆寺の五重塔も例外ではありません。鎌倉時代に書かれた『聖徳太子伝私記』によると、仏舎利が6粒・髻髪6毛が納められたと記載されています。その後、仏舎利が無くなっていることが判明したのですが、それがわかったのが、なんと大正時代になってからなんですよ。いつ、なぜ仏舎利が無くなったのか、全てが謎のままになっています。

 更に五重塔の相輪部分には、4本のカマがあります。このカマには豊作時には上に上がり、凶作時には下がるという伝説が伝わっているのですが、なぜ装着されたのかは謎。当時魔物とされていた雷を、遠ざけるためのものとされてはいますが、魔物除けが目的としても、はたして雷だったのでしょうか。

鎮魂のための寺院だった

 聖徳太子が、父である用明天皇の病気治癒を祈願するために創建したのが前の法隆寺となる斑鳩寺。その跡に暗殺された聖徳太子、及び太子一族を偲び、お祀りしたのが現在の法隆寺となる西院と思われます。

 さらに天然痘が荒れ狂う恐怖が蔓延する中、荒れ放題になっていた斑鳩宮の跡地に、東院伽藍として夢殿を創建してその中に救世観音を安置。孝謙天皇や藤原一族が、聖徳太子を偲ぶという意味はどういう事だったのでしょうか?五重塔に大きなカマを取り付けて、防ぎたかったのは何だったのでしょうか?

 起こった事象を整理していくと、何となく見えて来るものがありますね。これはあくまでも想像の域をでませんが…。理由はどうあれ、そして法隆寺が再建されたものだとしても、世界最古の木造建築として君臨していることには変わりありません。たとえ、聖徳太子一族の鎮魂が目的だった謎の寺院だったとしても、その魅力には変わりはありません。むしろ、謎が深まれば深まるほど、魅力は増していきますね。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早10年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。10年以上前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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