「七尾城の戦い(1576~77年)」謙信最晩年期の大いくさ!上洛ルートに王手をかける、能登国平定戦
- 2020/12/07
「人間五十年」という幸若舞『敦盛』の一節通り、越後の龍・上杉謙信は49歳にしてその生涯を閉じました。居城である春日山城で倒れ、昏睡の後息を引き取ったことから一説には脳卒中ではないかともいわれています。
人生のほとんどを戦場で過ごしたといっても過言ではない謙信は、越後の近隣諸国はもとより関東方面を含む広範囲に軍事行動を展開していました。謙信の最晩年期での事業に「能登国平定」があります。その趨勢を決し、謙信の能登国掌握を確実にしたのが天正4年(1576)から翌年にかけての「七尾城の戦い」です。
七尾城は能登国守護・畠山氏代々の居城であり、その攻略には単なる攻城戦というだけでなく能登内での権益争いや新興勢力とのせめぎ合いなど、複雑な政治・軍事上の動向が含まれていました。そこでやや煩雑になりますが、当時の政治背景を踏まえて「七尾城の戦い」を取り巻く状況を俯瞰してみることにしましょう。
人生のほとんどを戦場で過ごしたといっても過言ではない謙信は、越後の近隣諸国はもとより関東方面を含む広範囲に軍事行動を展開していました。謙信の最晩年期での事業に「能登国平定」があります。その趨勢を決し、謙信の能登国掌握を確実にしたのが天正4年(1576)から翌年にかけての「七尾城の戦い」です。
七尾城は能登国守護・畠山氏代々の居城であり、その攻略には単なる攻城戦というだけでなく能登内での権益争いや新興勢力とのせめぎ合いなど、複雑な政治・軍事上の動向が含まれていました。そこでやや煩雑になりますが、当時の政治背景を踏まえて「七尾城の戦い」を取り巻く状況を俯瞰してみることにしましょう。
上杉謙信は時代とともに様々に名を変えていますが、本コラムでは混乱を避けるため「謙信」で統一します。
合戦の背景
能登国の権益と紛争
現在の石川県能登半島あたりであった能登国は、室町幕府三管領・畠山氏の分家である能登畠山氏(七尾畠山氏)が代々守護を務めてきました。しかし戦国時代に入ると徐々にその基盤は弱体化し、天正4年(1576)の段階ではまだ幼児であった「畠山春王丸」が当主として擁立されます。
家中の実権は畠山四代に仕えた重臣「長 続連(ちょう つぐつら)」とその子「長 綱連」が握っており、春王丸は傀儡ですらないことは明白でした。
謙信は能登畠山氏8代当主「畠山義続」の次男、「畠山義春(上条政繁:じょうじょうまさしげ)」の擁立を企図。義春を能登畠山氏の正統な当主とし、治安回復を大義名分として能登国内の紛争に介入します。
ちなみにこの畠山義春は養子相当の人質として上杉に属しており、謙信の甥で後継者でもある「上杉景勝」の妹を娶っています。
戦に至る経緯
謙信が越後から京へのルートを往来する場合、越中(現在の富山県あたり)以西の北陸諸国を安全に通過することが大きな課題でした。越後の隣国である越中国については天正4年(1576)9月の時点で、一向一揆の勢力が支配的であった国内諸城を攻略し平定に成功していました。必然の流れとして次はその隣国の能登国へと駒を進めることが肝要となり、能登国内の紛争への介入は進軍のための恰好の口実となった形にも見受けられます。
また、ここには謙信と織田信長との軋轢も深く関わっていました。実は甲斐の武田氏という共通の難敵を前に、上杉と織田は同盟を結んでいました。
元亀3年(1572)に締結されたいわゆる「濃越同盟」がそうですが、信長は徐々にその勢力を伸張。翌年に武田信玄が死去したこともあり、やがて足利将軍家を脅かすほどに成長します。天正4年(1576)、安芸国・毛利氏のもとへと身を寄せていた15代将軍・足利義昭が反信長の軍事行動を唱導。石山本願寺は信長と交戦状態に入ります。
長島や越前など各地で壊滅的な打撃を受けた本願寺は、第11世「顕如」により長年敵対関係にあった謙信へ和睦提案を行い、同年5月18日に条約を締結します。ここに謙信と信長の同盟は解消され、代わりに信長を共通の敵とする大包囲網が敷かれることになりました。
謙信は5月の時点で安芸国の「毛利輝元」より上洛要請を受け、またこの後10月にも足利義昭より信長討伐の命を受けることになります。つまり、当時の謙信は対信長戦に備えて早急に京への交通路を掌握する必要があり、その途上において能登国平定の課題に直面したといえるでしょう。
合戦の経過・結果
能登と七尾城の実権を掌握していたのは先に述べた「長続連」でしたが、家中には他にも有力者がおり決して一枚岩ではありませんでした。たとえば家中の有力重臣グループ「畠山七人衆」の一人、「遊佐 続光(ゆさ つぐみつ)」は長続連と対立しており、主導権争いが続いていました。
謙信の能登介入にさいしても、長続連らが信長について越後と戦うことを主張したのに対し、遊佐続光は逆に謙信につくという考えをもっていました。しかし協議の末、能登は謙信に徹底抗戦することを決定。ここに七尾城の戦いを招く端緒が開かれました。
能登七尾城とは
七尾城の戦いの流れを見る前に、どういった城であったかを理解するためにも七尾城そのもののスペックを概観しておきましょう。七尾城とは現在の石川県七尾市古城町に所在した山城で、「松尾城」あるいは「末尾城」の別名も記録されています。
七尾という名の由来は七つの尾根をもつ山に築かれたことによるとされ、石動山系北端の標高約300メートルの位置にあります。また、七尾湾を望むことができ、海上への警備の目を光らせる能力も有していました。
先に述べた通り、能登畠山氏代々の本拠として知られ、大谷川と蹴落川に挟まれた城域には本丸・二の丸・三の丸・西の丸・調度丸・長殿丸などの郭が階段状に連なる構造をしていました。
本丸の跡は南北約50メートル・東西約40メートルの規模で、二段の石垣で固められるという堅固な造りを誇り、「日本五大山城」のひとつに数えられることもあります。
自然地形は峻険でありながらも海陸交通の要衝に立地する七尾城は、山麓には延長約4キロメートルともいわれる巨大な城下町を形成し、その様子は「千門万戸」と表現され多数の家屋や建造物のあったことが想像されます。
しばしば「天宮」とも例えられるような威容を誇り、調度丸からは天目茶碗などの陶磁器類が発掘されていることから、高い文化水準と物流網形成の証となっています。
1576年(天正4年)の戦い(第一次七尾城の戦い)
天正4年(1576)11月、謙信は能登国へと進軍。七尾城での防衛態勢は長続連が大手口、遊佐続光が蹴落口、温井景隆が古府谷をそれぞれ担当したとされ、上杉軍迎撃の準備を固めました。続連は近隣の領民を扇動して意図的に一揆を起こさせ、謙信の背後を衝くという工作を行います。
一方、一向一揆との度重なる衝突で多大な戦訓を得ていた謙信は、この動向を察知。一揆勢を鎮圧したうえで七尾城を包囲しますが、天然の要害として知られた堅城のこと、容易には攻略することができません。そこでまずは七尾城周辺の支城を順次撃破していくという定石を選択します。
熊木城(鹿島郡中島町谷内)・黒滝城(珠洲市正院町川尻)・富来城(羽咋郡富来町八幡)・城ヶ根山城(羽咋郡富来町)・粟生城(羽咋市柳田町)・米山城(鳳至郡柳田村国光)等々の諸城を攻略、能登方の本拠である七尾城を孤立させました。
しかし続連らは頑強な抵抗を続け、謙信に降伏することはありませんでした。
年は明けて天正5年(1577)、3月になると小田原の「北条氏政」が北関東方面へと進軍した報が入り、謙信は接収した能登諸城に重臣らを配置し、いったん越後本国へと帰投することになりました。
1577年(天正5年)の戦い(第二次七尾城の戦い)
能登駐留の上杉軍が謙信不在と見るや、畠山勢は果敢な反撃に打って出ます。あるいは調略を駆使して謙信から離反させ、あるいは正面攻撃で支城を奪還するなど、その智略と勇猛さは上杉軍に一歩も引けをとらないものでした。しかし閏7月、謙信が再び能登の戦場へと舞い戻ると畠山勢は一気に決戦の緊張感を高めます。奪還した諸城を放棄して全兵力を七尾城に集中、そのうえ領民を強制徴兵して軍役につかせたため、その兵力は約1万5000という大規模なものになりました。
元来信長につく意向を示していた続連は、謙信からの再攻撃に危機感を募らせ信長に援軍を要請しました。僧侶となっていた息子の「長連龍」が安土城への使者に選ばれ、信長はこの要請を受け入れ北陸方面への派兵を決定します。
この動きを謙信が察知したのは8月9日のことで、同盟関係にあった加賀の一向宗総領「七里頼周」に救援を要請。信長軍の足止めを依頼するとともに、七尾城攻略を一層の急務と位置付けました。
しかし事態は思わぬ展開をみせます。
強力な防御機構で上杉軍を寄せ付けなかった七尾城でしたが、城内で疫病が蔓延。大人数が籠城戦を展開していたため、将兵たちは次々と病に倒れていき、やがては畠山の幼君・春王丸までが疫病で命を落とします。
病気という見えない敵により内部から侵食された七尾城は落城寸前となり、以前より長続連と対立し親謙信派だった遊佐続光が上杉軍に内応。9月13日付の密書で謙信に合力する旨を伝えています。そして9月15日に続光ら謙信派の勢力が七尾城内で反乱、開城して上杉軍を招じ入れ続連ら抗戦派100余名は一網打尽にされてしまいます。
ここに七尾城の戦いは決着し、能登の権益は謙信が掌握することになったのでした。
戦後
七尾城の長続連の要請に応じて北陸方面に出兵した織田軍でしたが、加賀一向宗の妨害や軍内の不協和音もあり、企図した行程を踏むことができずにいました。折しも「松永久秀」が謀反を起こして大和の信貴山城に籠もるという事件も起こり、その対応のため信長自身が北陸へと向かう予定も中止されます。同年9月23日、士気が上がらないまま加賀で「手取川の戦い」に臨んだ織田軍は上杉軍に敗北し、翌天正6年(1578)のはじめ頃まで能登は上杉の勢力下に置かれました。その年の3月に謙信が急死すると、上杉家中では家督争いが勃発し、能登の権益は織田が握っていくことになります。
おわりに
七尾城の戦いによって越中に続いて能登を手中にした謙信は、次は越前(現在の福井県あたり)へと駒を進めて京へのルート完成に王手をかけるはすでした。事実、謙信が春日山城で倒れた時点では大規模な軍勢を整えている最中だったともいわれ、織田の北陸方面部隊との決戦に備えていたことが想定されます。やはり歴史にifは禁物といえども、もし謙信が健在でこの軍事行動が実現したと仮定すると、信長の覇業にとって巨大な壁として立ちふさがったことでしょう。
【主な参考文献】
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