誰が殺した祈祷僧 ── 織田信長と斎藤龍興どっち?

僧侶を殺害したのはどちらか…
僧侶を殺害したのはどちらか…

織田信長と僧侶

 織田信長と親しかったルイス・フロイスが『日本史』第三二章に次の逸話を記している。若き日の信長が、父・織田信秀のため僧侶たちに祈祷を依頼したことと、その顛末である。

(信長の) 父(織田信秀)が尾張で瀕死になった時、 彼(信長)は父の生命について祈祷することを仏僧らに願い、父が病気から回復するかどうか訊ねた。彼らは彼(信秀)が回復するであろうと保障した。しかるに彼は数日後に世を去った。
フロイス著『日本史』より

 結局のところ信秀は病死した。仏僧たちは根拠のない口約束をするだけで、信秀を救えなかった。信長は激怒した。

信長は仏僧らをある寺院に監禁し、外から戸を締め、貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てたから、今や自らの生命につき、さらに念を入れて偶像に祈るがよい、と言い、そして彼らを外から包囲した後、彼らのうち数人を射殺せしめた。
フロイス著『日本史』より

 信長ならいかにもやりそうなことに見える。ただし留意すべきことがある。同時代の人物による証言とは言え、『日本史』はあとになって書かれた二次史料である。フロイスは同じイエズス会の同時代人から、誇張癖があると言われており、この話もいくらか盛られている恐れがある。

 わたしの見る限り、信長が残虐になるのは、それまで信じていた将軍や同盟相手から相次いで裏切られた 30代後半の元亀騒乱頃からで、20代の信長は無闇な殺生をしている印象がない。大河ドラマでは、今川義元の首を粗雑に扱っていたが、実際にはこれを丁重に扱い、今川家臣・岡部元信を介して、その返却に応じている。

 しかし自分に反抗して降参した実弟を殺害するほどであるから、これも事実であるかもしれない。ちなみにその弟も怒りっぽい男で、信長と自分の弟を過失で死なせてしまった武士の城主を、問答無用で攻め立てたことがある。

斎藤龍興も父のために祈祷させた?

 後日、気になって一次史料を当たってみたところ、この事件と何ら関係のない別の史料に、次の記録を見つけた。これを記したのは誰であろう先の証言者フロイス本人である(『異国叢書』/1566年[永禄 9 年]9 月 5 日付フロイス書簡)。

美濃と云ふ一国あり。今同国の王たる人其父死せんとせし時 カミス(神)及びフォトケス(仏)即ち彼等の偶像に多く捧物をなさしめ諸僧院の坊主等に父の健康を得ん為め絶えず祈らんことを請ひたり。父子して子の幻像に対する信仰失せ、此の如く無力なる神々に希望を懸くべからざるが故に僧院を悉く破壊し、将来坊主及び女の坊主無からしむべしと命ぜり。
『異国叢書』より

 ここでは美濃の国主が、もと国主である父の病気を回復させようと僧侶たちに品物を多数捧げたが、僧侶たちの祈祷は無力に終わり、その父が亡くなってしまったので、息子は寺院を破壊して僧侶と尼僧を失職させたと記している。

 信長が美濃の首都(稲葉山城/岐阜城)を制圧したのはこの翌年のことなので、ここでいう美濃「同国の王たる人」とはその時の国主・斎藤龍興(たつおき。当時は一色義棟[よしむね]を名乗っていたようだが、本稿は「斎藤龍興」表記で通す。1547〜73)ということになろう。そして病死した父は、信長のライバル・斎藤高政(たかまさ。一色義龍。1527〜61)である。

 ということは、先の信長の逸話とされる祈祷僧の殺害事件は、龍興がやった事件を曲げて信長のものに変更した可能性が生起する。

 ただ、疑問点もある。斎藤道三(どうさん。利政。??〜1556)と高政父子の肖像画を保存する斎藤家の菩提寺常在寺(日蓮宗妙覚寺の末寺)は何の損害も受けず、今日まで法脈を伝えている。龍興が自国内の寺院に弾圧を加えた形跡や伝承も見られない。また、フロイスが「今同国の王たる人其父」という書き方に留めて、関係者の人名を具体的に明記していないことも不可解である。フロイスは視覚的にイメージを浮かべやすい具体的記述を好んで書き記す傾向が強く、もし人名をはっきり聞いていたら、ここに明記していたと考えられるからである。フロイスも確度の高い情報を得られていなかったのではないか。

 ところでまたフロイスの別の書簡だが、次の気になる記録も見える。

破壊された美濃の仏像たち

 その該当部分を引用しよう(『異国叢書』/1569年[永禄12年]7月12日付のルイス・フロイス書簡)。書かれたのは、信長が斎藤家を滅ぼし、その本拠地稲葉山城を岐阜城に改名して、足利義昭を京都で将軍に据えたあとのことである。

(私フロイスは)美濃の国に入りしが[中略]船にて之を渡る。途中石の偶像の頭なきもの多数を見たり。信長 之(これ)を除くことを命じたるなり
『異国叢書』より

 ここに信長が美濃の「大なる川」沿いに並ぶ仏像の頭を数多く破壊させていたことが記されている。

 通説はこの川を「長良川」と見ているが、同書簡はこの川のことを「(私フロイスは)近江の國を過ぎて美濃の國に入りしが、大部分は平地にして山少く樹木繁茂し、大なる川」として、近江寄りの川であることを確かめられる。

 するとこの川は長良川西の一級河川・揖斐川(いびがわ)と見るが適切だろう。信長は美濃・揖斐川ほとりの仏像を破壊させたのだ。

 同地域においては、信長が桶狭間合戦のあった永禄3年(1560)に、揖斐川近くの真言宗寺院・来振寺(きぶりじ)を焼き討ちしたことが伝えられている。

 信長は翌年(1561)に揖斐川のある西美濃方面に戦時禁制を発しており、同地を繰り返し攻撃していたと見られる。そしてその原因は桶狭間合戦にあった。

※参考:桶狭間と三河国周辺マップ(戦ヒス編集部作成)
※参考:桶狭間と三河国周辺マップ(戦ヒス編集部作成)

今川軍は尾張・美濃の一向宗と連携していた

 桶狭間合戦に際して、駿河の今川義元は尾張および三河北部に、推計2万5000人の大軍を進めていた。義元は、尾張大高城を制圧し、そこから海路を使って北進するつもりだったようである。

 今川軍の先手勢は侵攻過程で尾張独立勢力の服部友貞と合流、さらに尾張一向衆(天理本『信長公記』首巻にある「河内二ノ江ノ坊主」)が、揖斐川経由で美濃の延暦寺系僧兵団を招き入れる予定でいたのだろう。信長は義元を討ち取ったあと、三河方面に出る絶好のチャンスであったにもかかわらず、美濃揖斐川方面への出兵を優先した。

 信長は無傷のまま残された抵抗勢力の平定を急ぐべきと判断したのである。

誰が殺した祈祷僧

 そしてフロイスは、美濃併呑を眼前に控える信長の威勢を耳にして、これを美濃の国主かもしれないと思いながら、先に掲出した1566年(永禄9年)9月5日付書状の内容を記したのだろう。ゆえに人名を明記しなかったように思う。

 フロイスは後日に精度の高い情報を得て、これを『日本史』に反映させたのかもしれない。とはいえ、若き日の信長が本当に祈祷僧らを虐殺したかどうかは不明である。フロイスが書き残した情報のうち、揖斐川沿いの仏像を信長が破壊したこと以外は、単なる噂話なのかもしれない。

 誰が殺した祈祷僧──。事件そのものが存在しない恐れもあるが、私は『日本史』に伝わる通り、信長がやったことのように思う。

 ところで祈祷の末、もしも信秀がむくりと起き上がり「ありがとう。おかげで俺は元気になったぞ」と笑顔を見せていたら、どうなっていたであろうか。信長は仏教の熱心な崇拝者となり、延暦寺焼き討ちなどしなかったかもしれない。

 そうすると武田信玄が、信長打倒の大義名分に掲げた延暦寺破壊も成立しなくなるので、信長は将軍や信玄と対立することなく、元亀争乱を回避したであろうか。

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  この記事を書いた人
乃至 政彦 さん
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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