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日本人が知らない日本の偉人【台湾編】
- 2022/10/11
『KANO 1931海の向こうの甲子園』という台湾映画があります。この映画は戦前、日本の植民地だった台湾の学校が甲子園大会に出場していた史実に基づいて作られました。
映画では台湾代表『KANO』こと嘉義農林学校が甲子園へ活躍する様子とともに、同時期に台湾で完成した烏山頭ダムについても描かれています。
台湾南部を豊かにした烏山頭ダム開発、その責任者は日本人でした。
映画では台湾代表『KANO』こと嘉義農林学校が甲子園へ活躍する様子とともに、同時期に台湾で完成した烏山頭ダムについても描かれています。
台湾南部を豊かにした烏山頭ダム開発、その責任者は日本人でした。
ダム開発で台南を豊かにした八田與一
八田與一(1886~1942年)は日本ではあまりなじみのない人物ですが、台湾ではよく知られている日本人です。台南の嘉南平原は今でこそ豊かな穀倉地帯ですが、戦前は雨期の水害と乾期の水不足のため、飲み水にも事欠く不毛の土地でした。ここへダム建設とかんがい設備を整備せよ、と訴えたのが日本の土木技師・八田與一です。
ダム建設にともなう農作物の生産向上は、日本のための国策ではありましたが、同時に台湾の人々に安定した作物の供給をもたらすことにも繋がりました。
ダム建設に際して八田與一は、台湾人を差別せずに採用し、現地の人と気さくに交流を行いました。その人柄によって、八田は多くの人に慕われていたそうです。
しかし、ダム建設は落成まで10年もの年月がかかり、その間に大規模な爆発事故が起こりました。八田與一は、従業員の解雇を余儀なくされましたが、その時は職員ひとりひとりに再就職先の世話までしたのだとか。
そんな八田與一は今でも台湾人から愛され、銅像にもなっています。実はこの銅像、戦時中の金属供出(金物をあつめて銃弾などを作る作戦)の時はひそかに隠され、守られていました。
戦後も蒋介石率いる国民党から像を破壊されても、そのたびに人々は像を作り直したそうです。
弱小チームを甲子園へ出場させた近藤兵太郎
近藤兵太郎(1888~1966年)は当時、弱小だった嘉義農林学校の野球チームを甲子園準優勝にまで導いた名監督です。当時、日本の植民地だった現地の人々は差別を受けていましたが、近藤監督は日本人、漢人、台湾原住民の選手を分け隔てなく登用しました。彼らの特性である「打撃力の台湾人、守備の日本人、俊足の先住民族」をいかし、最強のチームを作り上げていきます。
指導はスパルタでしたが、「グラウンドは神聖な場所。入る時は一礼するべし」「諦めなければチャンスはくる」など礼儀と武士道精神を選手たちに教え込みました。
嘉義農林が甲子園に出場すると、最初は見下していた日本人たちも、彼らのひたむきなプレーに魅了され、作家の菊池寛は「すっかりKANOびいきとなってしまった」と書き残しています。
その後、教え子たちは日本のプロ野球で活躍したり、台湾での野球部の監督をつとめたりと台湾野球の発展に貢献しました。
台湾発展に力を注いだ人々
ダムのインフラ整備、野球によるスポーツの発展のほかにも、台湾の発展に力を尽くした数多くの日本人がいました。西郷隆盛の息子・菊次郎(1861~1928年)は、悪さをする地元の土匪たちに仕事を与え、治安を整えるとともに、治水事業を行いました。彼の作った堤防は「西郷堤」と呼ばれ、菊次郎は今も現地の人々に愛されています。
また、磯永吉・末永仁は日本のジャポニカ米を台湾の気候に合うよう品種改良を行い、台湾の農業の発展を支えました。
まとめ
東日本大震災当時、もっとも多くの義援金を送ってくれた国は台湾でした。日本人による台湾支配は、とてもつらい出来事でしたが、一方で日本人が行った多くの事業で台湾の産業が向上したのも事実です。そこには、自身を顧みず台湾のためにつくした先人たちの努力があり、その努力を台湾の人々が忘れないからこそ、今日の日台交流につながっていったのでしょう。
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