※ この記事はユーザー投稿です
【やさしい歴史用語解説】「神宮寺と鎮守社」
- 2023/07/13
なぜこんなおかしなことになっているのでしょうか?実は飛鳥時代に仏教が伝来した際、貴族たちは仏教を信仰していたのですが、庶民たちは古来の神々を祀る神道を崇拝していました。
やがて平安時代になると、いよいよ仏教が民間レベルにまで浸透してきます。ところが庶民にとって天照大神や須佐之男命は大事な存在ですし、かといって仏様も厚く信仰したい。そこで ウルトラC ともいうべきトンデモ論が現れたのです。
それが「本地垂迹説」というもので、仏が神へと姿を変え、人々を救済するべくこの世に現われたと解釈しました。とてつもなく都合の良い話ですが、これによって仏と神は同一化され、仏教と神道は融合したのです。これを「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と呼びますね。
その結果、各地の神社には寺院が付属してつくられ、また寺院の中にはお社が建てられました。ちなみに有名どころとしては、愛知県の豊川稲荷、そして岡山県の最上稲荷あたりが挙げられるでしょうか。
豊川稲荷の正式名称は妙厳寺といって、ご本尊は千手観音です。いっぽう、境内を守る鎮守神が別に存在しており、これを吒枳尼天(だきにてん)といいます。
また最上稲荷の正式名称は妙教寺といい、こちらのご本尊は釈迦如来となっていますね。ここにも祈祷本尊という神様が別にいて、最上位経王大菩薩といういかにも仏っぽい名前を名乗っています。
ということは、豊川稲荷と最上稲荷は、どちらも仏教の神様を鎮守神にしているということになりますね。
ちなみに吒枳尼天と最上位経王大菩薩には共通点があって、どちらも狐にまたがって稲穂を担いでいるお姿なのです。考えてみれば日本にもそんな古来神がいました。それがウカマノミタマという神様ですね。同様に狐にまたがって稲穂を手に持つ「穀物の神」だとされています。
神仏習合の結果、ウカマノミタマは吒枳尼天や最上位経王大菩薩という存在へと変化を遂げたのでしょう。
明治時代以前には、神宮寺や鎮守社が全国各地に存在し、多くの武士や庶民から尊崇を集めていたといいます。神宮寺では社僧がすべての運営を任されていて、本来なら仏事を行う僧侶が、神社の祭祀を仏式でおこなっていたのだとか。
また神宮寺は幕府や武士が保護してきたこともあり、普通の寺では当たり前だった檀家がいませんでした。やがて明治時代に入ると神仏分離令に伴う廃仏毀釈の標的となり、神社に転向するか消滅していったため、急速に数を減らしていきます。現在でも「神宮寺」という地名が各地に残るように、その痕跡を確かめることができますね。
鎮守社も同じく大きな被害を受けています。比叡山延暦寺の鎮守社だった日吉山王社は、神官たちで結成された神威隊の襲撃を受け、多くの仏像や経典を失うという事態に陥りました。日吉山王社は仕方なく延暦寺から独立し、社名を日吉大社に改めたのです。
こうして各地にあった神宮寺・鎮守社は姿を消していき、現在では数えるほどとなっていますね。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄