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「徒然草」と「方丈記」における無常観の違いとは?

はじめに

皆さんは徒然草と方丈記をご存じでしょうか。どちらも鎌倉時代に書かれた随筆で、枕草子と並んで三大随筆と呼ばれています。

徒然草と方丈記は仏教的無常観という思想に共通して書かれているというのは学校でも習いますが、実際にどのような違いあるかについてはあまり知られていません。

今回は、徒然草と方丈記における無常観の違いについて見ていきます。

徒然草とは?

徒然草は、鎌倉時代に吉田兼好(兼好法師)によって書かれた随筆です。その内容は人生論や人間観、女性観、備忘録のように一貫性がありませんが、無常観についても見られます。

兼好の思想は、「生命無常」「人心無常」「存在無常」といった生涯の不定に基づいています。死というものは時間の経過とともに刻一刻と迫っており、その生涯はいつ終わるか分からない。だからこそ、生は貴重であり価値を見出すべきだと考えていたのです。

方丈記とは?

方丈記は、鎌倉時代に鴨長明によって書かれた随筆です。その内容は、一貫して無常観について書かれています。

長明は、敬虔な仏徒であったことから煩雑な人間関係や物欲から無縁となった孤独で貧しい生活こそが、真の幸福を有するという考えを持っていました。したがって、長明は当時の貴族社会を否定していたとも取れます。

無常観とは?

そもそも無常観とは、「生は常に変化して移り変わり、同じ状態に留まらない」という仏教の教えに基づいた考え方を意味します。

徒然草と方丈記はどちらも仏教的無常観に基づいて書かれた作品です。

徒然草と方丈記の違い

徒然草と方丈記の大きな違いは、作者の思想です。一見同じような考え方をしているように見えますが、両者の思想はかなり異なっています。

徒然草を書いた兼好は、第93段で「人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」と語っています。

つまり、兼好は無常を嘆き、死を悲哀するのではなく、生を楽しむべきだと言っているのです。実際に兼好は山に籠もり人との関わりを最小限にして修行する「遁世生活」をしていたのですが、そうした中でもときどき都に下りることを肯定していました。

一方で、長明の方丈記からは貴族社会への嫌悪や自己追求、世を捨てきれない自分を自責するような内容が見受けられます。

長明は和歌や管弦を好んでいたので、無常観を持ち遁世生活を行いながらも自らが否定した貴族の生活を捨てきれない自分を自責していました。

つまり長明は、無常だからこそ生を楽しもうとする兼好と異なり、移りゆく生を全うするためには全ての欲を断絶する必要があり、それをできない自分に悔しい思いをしていたのです。

おわりに

いかがだったでしょうか。徒然草と方丈記の違いは、その内容からも非常に見て取れます。現代語訳版なども販売されているので、読んでみるのも面白いと思います。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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  この記事を書いた人
一茶 さん

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