吉原の引っ越し、焼け太りした吉原楼主たち

明治5年(1872)頃の東京の吉原遊廓(出典:wikipedia)
明治5年(1872)頃の東京の吉原遊廓(出典:wikipedia)
 初代吉原惣名主庄司甚右衛門の尽力で、何とか幕府公認のお墨付きを頂いた遊郭吉原楼主たち。元和3年(1617)3月、現在の日本橋人形町あたりに落ち着いて商売を始めますが、それも長くは続きませんでした。

またも移転を命じられる吉原

 開設当時は湿地に囲まれ、寂れた場所だった元吉原(現在の日本橋人形町付近)ですが、江戸が発展するにつれて開発が進み、人口も増え、周辺にも人家が立ち並ぶようになります。すると風紀の乱れと治安の悪化を懸念した幕府は、またも吉原を江戸の僻地に追いやろうとしました。

 せっかく御公儀に認めてもらい、商売も繁盛しているのにまたぞろ移転の話です。妓楼の楼主たちは抵抗しましたが、幕府も引き換え条件を出して来ます。明暦2年(1656)10月9日、町奉行所へ呼び出された楼主たちに示されたのが以下の条件です。

  • 「一つ、町割りを五割増やす。つまり現在の2✕2町から2✕3町に増やす」
  • 「一つ、昼間だけに限っていた商売の時間を拡大、夜間営業も認める」
  • 「一つ、移転のための引っ越し代金を支払う」
    → なんと1万5000両も下さると言うのです。当時は1両で米150kgが買えましたから、2,250,000kgもの米が買える大層な金額です。
  • 「一つ、吉原の商売敵湯女風呂200軒余りを取り潰す。そして追い出された湯女たちを吉原に下げ渡す」
    → 湯女は少女を買い取ってから遊女に育て上げる手間も要らず即戦力になりますから、これは大きいのです。
  • 「一つ、祭礼と出火時の消火などの町役を免除する」
    → これは面倒な付き合いや余計な出費が無くて済みますが、逆に吉原も他の町内から助けてもらえません。

 なかなかの好条件ですし、お上にいつまでも立てついても勝てるはずもなく、楼主たちはこの条件を呑みます。

 提示された移転先は本所と日本堤の2ヶ所です。本所は現在の墨田区の南側に当たり、元吉原から見ると隅田川を渡らねばなりません。当時は隅田川に橋もかかっておらずいかにも不便です。もう一方の日本堤(現在の台東区千束4丁目付近)は浅草寺の裏手に当たり、こちらも田んぼが広がり雀が飛び交うような所でしたが、少なくとも川は渡らずに済みますのでこちらが選ばれました。

追い打ちを掛ける明暦の大火

 準備を始めた楼主たちを追い立てるように、明暦の大火が襲い掛かります。明暦3年(1657)1月18日から3日間で江戸の街を焼け野原にした大火事は、吉原も焼き尽くしてしまうのです。

明暦の大火の際、車長持に荷物を満載して避難する人々(『むさしあぶみ』より。出典:wikipedia)
明暦の大火の際、車長持に荷物を満載して避難する人々(『むさしあぶみ』より。出典:wikipedia)

「いっそさっぱり未練も無くなった」

 そう話す楼主たちに幕府は「小屋掛けをしてでも商売せよ」と厳命します。大火事からの復興工事を見込んで、地方から多くの職人が江戸へ流れ込んで来るのが予想されます。「彼らの欲求を満たす場所が無いと性犯罪が多発し、火災後の江戸の混乱に拍車がかかる。それを押さえるには吉原が必要だ」幕府の役人はそう判断しました。

 実際のところ、楼主たちは火事の後の2月か3月にはすでに潜りで商売を始めています。新吉原が完成するまで遊んでいるわけにはいきません、火事で失った財産の分も稼がねばなりません。そこへ出された幕府の営業再開命令ですから、これを聞いた楼主たちには「渡りに船」です。さっそく浅草日本堤付近(現在の今戸・新鳥越・山谷あたり)の農家や、浅草・深川・本所の料理屋や茶屋の建物を借りて、大っぴらに“仮宅(かりたく)営業”を始めます。

吉原の焼け太り

 この“仮宅営業”が思いがけず客の大評判を取ります。仮宅ですから正式の吉原遊郭では必要不可欠だったこまごまと面倒なしきたりも省かれ、値段も他の岡場所程度に抑えられ、客にすれば手軽に遊べる場所でした。

 実はこの“仮宅営業”、何度も火事に襲われた江戸では、公認の妓楼の場合に許された以前からある制度です。再建まで300日とか250日とか期限を設けての臨時営業ですが、街中の料理屋や茶屋が借りられるので、客にとっても通いやすく評判も良かったのです。吉原の豪勢な妓楼ではなく、こじんまりとした風情が逆に人気で、趣向が変わったと面白がる客もいました。13人の遊女が一昼夜に91人の客を取ったとの記録もあり、世間ではこれを“吉原の焼け太り”と呼びました。

 吉原は開設から慶応2年(1866)までの250年間で、実に36回も火災に見舞われています。このうち吉原が火元となったのが28回、全焼が21回でそのうちの13回は遊女自身の火付けによるものだったとか。最初の“仮宅営業”で味をしめた楼主たちはそのたびに同じ手法を繰り返しました。

遊女パレード

 明暦3年(1657)6月9日、町奉行所へ呼び出された吉原の主だった楼主たちは、月の内に浅草日本堤に移るよう命じられます。新吉原の遊郭建設工事はこの年の3月に取り掛かったばかりで完成はまだ先の話でしたが、楼主たちは動きだします。

 同じ月の15日と16日、華やかに着飾った遊女たちが浅草日本堤への一大パレードを敢行。吉原引っ越しのお披露目ですが、普段なら滅多に顔を拝めぬ花魁も出るとあって、一目見たいと大勢の見物人が集まりました。

「浅草本堂東西の欄干、山門、随神門の間には遊女を見物せんと貴賎群衆したり」

と語られるように、珍しいもの派手なもの大好きの江戸っ子に大評判を取り、新吉原の良い宣伝になりました。このパレードが後の吉原花魁道中につながります。

 新吉原の敷地はおよそ2万7670坪あり、周囲には忍び返しを植えた黒板塀が張り巡らされ、その外側を幅9mもある “お歯黒どぶ” が取り囲みます。この色里には遊女と妓楼の雇人、商人や職人など約1万人が暮らしました。

おわりに

 大火事が起きた年の4月、移転先の日本堤吉原田圃を石谷貞清(いしがやさだきよ)北町奉行と神尾元勝(かみおもとかつ)南町奉行・曽根左衛門勘定奉行の3人が訪れています。江戸の治安を預かる南北両町奉行に、勘定方のトップで天領も支配する勘定奉行までの錚々たる顔触れです。

 大火事の後とあって諸物価は高騰、大工の手間賃や石材・木材などの建築資材は暴騰しています。そんななかでも吉原の工事は急ピッチで行われました。幕府はどうしても公認遊郭を急いで復活させたかったようです。


【主な参考文献】
  • 安藤優一郎「江戸の色町遊女と吉原の歴史」株式会社カンゼン/2016年
  • 堀江宏樹「三大遊郭」幻冬舎/2015年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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