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葛飾北斎『冨嶽三十六景』で描かれた「鰍沢」
- 2022/06/13
葛飾北斎『冨嶽三十六景』の「甲州石班澤(こうしゅうかじかざわ)」は、初摺を“ベロ藍”のみを使って摺られたことでも知られる名所絵。この「甲州石班澤」とは、山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢(かじかざわ)付近のこと。この「石班」は「石斑(ウグイ)」を誤って記したものと言われるが、漁師は何の魚を網にかけようとしているのだろうか。
富士川は日本三大急流の1つ。鰍沢の手前で釜無川と笛吹川などが合流して富士川となる。絵の中には、岩に激しくぶつかり泡立つ川の水、せり出した岩場には網を打つ漁師がいる。奥に見える富士山と岩場と網が生み出す三角形の直線的な構図に対して、川の流れの心をざわつかせるような曲線の動き。対照的な表現と構図が緊張感をもたらす作品だ。
実際には作品に描かれた場面の正確な場所はわかっておらず、鰍沢南方にあった禹之瀬と呼ばれる渓谷付近をイメージしたと思われるという。整備が進んだ現在のこのあたりの富士川では、普段は波しぶきが立つほどの川の水の様子を見ることはないが、鰍沢といえば富士川舟運の要衝として知られる場所だ。
江戸時代の鰍沢には船着場である鰍沢河岸があり、信州往還と駿州往還の交わる土地であったという。鰍沢河岸があったのは、現在の富士橋の西側あたり。ここで塩が陸揚げされて信州まで運ばれていたことから、信州の高遠では塩のことを「鰍沢」と呼んでいたこともあるとか。
富士川に舟が通ったのは、慶長12年(1607)に徳川家康の命により京都の角倉了以らが富士川を開削してからのこと。運ばれる物資を表すものに「下げ米、上げ塩」という言葉があるという。江戸への御廻米を運ぶとともに、塩を中心とした物資の運搬や乗船にも利用されたが、急流の富士川には難所が多く、遭難者の供養塔も残っている。
一方、落語にも「鰍沢」という噺がある。幕末に名人三遊亭円朝が三題噺の会で発表したと伝えられるもので、身延山参りの旅人が、鰍沢の船着き場に出ようとして雪道に迷う噺だが、ここにもそそり立つ絶壁と急な川の流れが登場する。
急流のイメージが江戸に広まっていたと思われる鰍沢だが、現代の鰍沢を実際に訪れてみると、地元の和菓子店で「塩饅頭」を購入することができるほか、国登録有形文化財に指定されている商家の塩蔵が残るなど「塩の道」のイメージを強くもつことだろう。
◆ 参考
※すみだ北斎美術館HP
https://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/51
※山梨県立博物館かいじあむHP
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_14.htm
※富士川町HP
<富士川舟運>
https://www.town.fujikawa.yamanashi.jp/docs/2023090600071/
<落語「鰍沢」>
https://www.town.fujikawa.yamanashi.jp/docs/2023080900211/
※南部町HP
https://www.town.nanbu.yamanashi.jp/kankou/rekishi/nanbushi/funaun.html
※全国町村会HP
https://www.zck.or.jp/site/essay/5503.html
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