※ この記事はユーザー投稿です
忍者と冒険家と中野学校。日本スパイの歴史
- 2022/05/16
忍者といえば、今では世界中で人気のヒーローです。しかし、その歴史についてはよくわかっていません。また、近代になって活躍したスパイについても、存在自体が秘密とされているため、詳細は不明。
しかし、わずかな古文書や資料などから垣間見る忍者やスパイの仕事は、派手なアクションよりも地道な情報収集がメインだったようです。
しかし、わずかな古文書や資料などから垣間見る忍者やスパイの仕事は、派手なアクションよりも地道な情報収集がメインだったようです。
忍者の仕事は情報収集
「忍者」といえば、水の上を走り、黒装束で手裏剣を投げて敵地に潜入…という派手なイメージがあります。『鬼滅の刃』でも、ド派手な忍者出身の登場人物が活躍しますね。しかし、実際の忍者の仕事はむしろ地味でした。忍者の仕事のメインは「情報収集」です。現地に入り込み、人々に紛れて地道な情報収集を行うことが最重要のミッションでした。そのため、最も重要なスキルは剣術や忍術ではなく、方言や会話術といった「コミュニケーション能力」だったとか。
古文書によると「相手の話をよく聞く」「愚かなふりをして質問をする」と、相手は気持ちよく答えてくれるのだそうです。これは、現代でも利用できそうなスキルですね。
また、女忍者くノ一も専門はアクションよりもハニートラップだったらしく、尾張の殿様が見目麗しいくノ一を集めていたらしい…という古文書も見つかっています。
冒険のついでにスパイ活動
明治時代、鎖国が解けると人々は海外へと新天地を求めて旅立って行きました。中でも冒険家たちは、あえて前人未到の地を探検に出たのです。以前、ご紹介した冒険家・中村春吉も、当時の陸軍に依頼され冒険のついでに中国でスパイ活動を行ったのでは…という説もあります。
有名な彫刻家が実はスパイ?
朝倉文夫は明治から昭和にかけて活躍した彫刻家です。台東区には彼の住居とアトリエが「朝倉彫塑館」として公開されています。そんな朝倉が若い頃に向かったのは、マレーシアやシンガポールなどの東南アジアでした。
明治時代、芸術家たちの洋行といえばヨーロッパへの留学がほとんどでしたが、一体なぜ、彼はヨーロッパでなく東南アジアへ行ったのか。その理由は当時の元老・井上馨から依頼されたスパイ活動だったそうです。
スパイ活動については、実際に朝倉文夫自身が書き残していますので、信頼性は高いと思いますが、「芸術家が実はスパイ」だなんて、ドラマや映画になりそうな、魅力的な題材ですね。
D機関と陸軍中野学校
『ジョーカー・ゲーム』というスパイ小説では「D機関」という日本軍のスパイ組織が活躍します。彼らは仲間にも本名を明かさず、あらゆる訓練を受けて諜報活動を行います。この「D機関」にはモデルがあり、それがスパイ養成組織・陸軍中野学校でした。陸軍中野学校出身者は小説と同じく、特殊な訓練を受けて諜報活動を行いました。また、戦況が悪化すると、スパイからゲリラ活動をメインに行っていたそうです。
時は流れ昭和40年代、ジャングルに潜んでいた旧日本兵が発見されるといったニュースが世間を騒がせました。実は、帰還兵のひとりである小野田さんも中野学校の出身で、中野学校では「潔く死ぬ」よりも「生き延びて任務遂行」が信条だったことが、彼が生き延びた一因だったそうです。
まとめ
その他にも「スパイ」といえば、踊り子のマタハリや、清朝の王女にして日本軍のスパイだった川島芳子が有名です。しかし、ハニートラップは別として、スパイの本分は「目立たずに情報収集する」ことなので、彼女たちが本当の意味での「目立たないスパイ活動」をしていたかは疑問が残ります。
おそらく、本当に優秀なスパイというのは、相手が程よい優越感を味わえる愚かさを持ち、聞き上手で、思わず話したくなるような人なのではないでしょうか。
もしかしたら今も、あなたのそばに、いまもスパイは存在しているのかもしれません…。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄