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院政から鳥羽伏見の戦いまで、梅の名所「城南宮」が見てきた歴史をたどる

城南宮と言えば梅の名所のイメージを持つ人が多いかもしれません。今では大人気の観光地としても知られていますが、昔は「院政」の舞台となった地であり、幕末では「鳥羽伏見の戦い」で激戦地になった場所です。

今回はそんな複雑な歴史を持つ城南宮について掘り下げたいと思います。

城南宮とは

城南宮は梅の名所としてとても有名な場所です。毎年梅の時期には梅園を見ようと観光客が大行列です。

実際に訪れてみると、その人気の理由がわかります。しだれ梅が丁寧に手入れされた梅園は見ごたえたっぷりで、特に”しだれ梅と落ち椿”は不思議で美しい光景です。

城南宮の成り立ち

城南宮は平安遷都の際(西暦794年)に都の安泰を願い、都の南に守護神として建てられた神社です。

平安京は四神である北の玄武、東の蒼龍、南の朱雀、西の白虎に守られている「四神相応の地」に建てられており、城南宮は南の朱雀にあたります。

城南宮の御祭神は城南大神ですが、これは大国主命(おおくにぬしのみこと)と国常立尊(くにのとこたちのみこと)と神功皇后(じんぐうこうごう)を合わせた神のこと。昔から「方除けの神」として有名で、引っ越しや旅行安全を願うなどの信仰もあつめています。

院政時代へ

平安時代後期には白河上皇や鳥羽上皇によって、城南離宮(鳥羽離宮)が増築されました。これにより城南宮は院政の拠点になり、神事や歌会など華やかな宴や遊びが行われる平安の王朝文化の中心地になりました。

現在でもその名残がのこっており、庭園は季節の花や錦鯉の泳ぐ池など趣向が凝らされ「源氏物語花の庭」と呼ばれています。

また、城南宮では小川に杯を流し和歌を詠み御酒を頂くという当時の遊びのひとつ「曲水の宴」が毎年2回行われており、衣装も当時のままイベントとして楽しむことができます。

城南宮の暗い歴史・戦の激戦地に

承久の乱のきっかけになった場所

ここまでは華やかなイメージの城南宮でしたが、承久3年(1221年)、後鳥羽上皇はかねてより敵対していた鎌倉幕府と対決する道をえらびます。

後鳥羽上皇はここ城南宮で流鏑馬(やぶさめ)を口実に関西から兵を募り、北条義時追討のために兵を挙げました。

『承久記』には「鳥羽の城南寺の流鏑馬そろへと披露して」との記述があるといいます。しかし、流鏑馬(やぶさめ)は口実で偽りであったことから、平成17年(2005)まで城南宮で流鏑馬行事は中止となってしまっていたといいます。

後鳥羽上皇はその後幕府軍の大群に敗北し、隠岐に島流しされることになります。その後、鎌倉時代に入り、城南宮は14世紀まで院御所として使われました。
 

鳥羽伏見の戦いへ

鳥羽伏見の戦いでは城南宮は薩摩軍の陣地があった場所です。参道に置かれた薩摩藩の大砲から戦いが始まり、ここは激戦地になりました。

当初劣勢だった薩摩軍(新政府軍)ですが、錦の御旗が翻って形勢が逆転。旧幕府軍が敗走したという経緯もあります。

鳥羽伏見の戦いは多くの戦死者を出したことでも有名で、当時はこの辺りも悲惨な状況だったといいます。勝利した薩摩軍は後に城南宮の加護があったからであるとお礼参りをしたという話も残っています。

まとめ

千年以上の歴史を重ねてきた城南宮は現在でも「方除の大社」として信仰され、日々の暮らしを守る神として在り続けています。

観光目的で訪れると城南宮のもつ暗い歴史とイベント時のにぎやかな様子にギャップを感じることもありますが、もしかしたらそれが華やかで明るい元々の城南宮の姿なのかもしれません。

城南宮のほかに京都を守る社として建てられた上賀茂神社、平安神宮、松尾大社、八坂神社とともに京都五社めぐりの参拝もおすすめ。

院政や承久の乱の時代は現在放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも注目を集める時代で、今後ドラマに城南宮の登場もありそうです。

京都に来られた際には、京都の歴史を感じる城南宮もぜひ訪れてみてください。

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  この記事を書いた人
ゆかた さん

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