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『吾妻鏡』で読む大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(8)伊豆国目代・山木兼隆
- 2022/03/18
『吾妻鏡』でいうと、ドラマ冒頭で描かれた、挙兵の日取りを占いで決める場面は、治承4年8月6日(西暦1180年8月28日)です。そこから、8月17日(西暦9月8日)夜に挙兵を決行するまでの、12日間の物語となります。
頼朝が襲撃対象に選んだのは、平家の一族である山木兼隆(演:木原勝利)という人物です。彼は伊豆国の「目代」(もくだい)と説明されていました。これは、伊豆国の行政長官である国司(こくし)の代理として、現地での行政を取り仕切る官職です。
実は、もともと伊豆国の国司――これを「伊豆守」(いずのかみ)という――だったのは、源仲綱という人物でした。仲綱は、源氏でありながら平家政権に重用されていた源頼政の息子です。頼政は平清盛の信用を得て、伊豆国司の人事権を任されていた――これを「知行国主」(ちぎょうこくしゅ)という――ので、息子の仲綱を伊豆守に就けたのです。
そういえば、ドラマ第3回には、上洛した北条時政(演:坂東彌十郎)が、源頼政へ挨拶に行っている場面がありました。これは、頼政が伊豆の知行国主として実質的な権力を及ぼしていたことから、創作された場面だと思われます。
ところが、頼政・仲綱父子は、以仁王の挙兵に加わって、ともに戦死してしまいました。これにより、頼政に代わって伊豆の知行国主になったのが、平清盛の妻の弟にあたる、平時忠という人物です。「平家にあらずんば人にあらず」という、平家の栄華を象徴する有名な言葉は、『平家物語』作中での時忠の発言がもとになっています。
時忠は、自分の養子である平時兼を伊豆守に就けました。ただし時兼自身は伊豆へ赴任せず、京に留まりました。そして国司代理、すなわち目代として、平家の分家筋にあたる山木兼隆に現地の行政を任せたのです。それでは、なぜ兼隆が目代に選ばれたのでしょうか。
『吾妻鏡』治承4年8月4日条には、このように記述されています。「散位平兼隆〔前廷尉、山木判官と号す〕は、伊豆国の流人なり。父和泉守信兼の訴に依りて、当国山木郷に配せらる。漸く年序を歴るの後、平相国禅閤の権を仮りて、威を郡郷に輝かす。是、本より平家一流の氏族たるに依るなり」。
「廷尉」(ていい)・「判官」(はんがん)は、どちらも、京の治安維持や警察を担当する「検非違使」という武官のうち、三等官にあたる「検非違使尉」(けびいしのじょう)の別名です。細かく分けると大尉(だいじょう)・少尉(しょうじょう)の二等級がありますが、兼隆は少尉だったようです。
つまりもともと兼隆は京で朝廷に仕えていたわけですが、父である平信兼と仲違いして官職を奪われ、伊豆国山木郷へ流罪にされてしまったということです。ところが、平家一門という血筋ゆえに、兼隆は伊豆守・平時兼の目代に抜擢され、「平相国禅閤」すなわち平清盛の絶大な権力を背景にして、地元の有力者となったようです。
そればかりでなく、平時忠は検非違使の長官である「検非違使別当」(けびいしのべっとう)を長く務めた人物でした。したがって、検非違使少尉だった兼隆は、伊豆知行国主・時忠のかつての部下ということになります。兼隆が抜擢された背景には、その縁故もあると考えられます。
さて、伊豆への流罪といえば、どこかで聞いたような話です。そう、平治の乱に敗れて伊豆へ流罪にされた源頼朝と同じ境遇なのです。しかも、兼隆の住んでいる山木は、頼朝が暮らす北条からみて、北東に約2.5kmという至近距離にあります。ほんの小さな山間の盆地に、平家の流人・山木兼隆と、源氏の流人・源頼朝とが並び立っていたのです。
二人の流人の運命は、以仁王の挙兵によって大きく分かれました。源頼政・仲綱父子が滅ぼされて、平時忠・時兼父子に取って代わられたことにより、伊豆国に対する平家の影響力はますます強まりました。兼隆が目代の地位と権力を手に入れたのに引き換えて、頼朝の運命は風前の灯火といったところでしょう。ドラマ第3回で、大庭景親(演:國村隼)は「源氏はもう終わった。いずれ〔頼朝も〕成敗されるだろう」と発言していました。
したがって、頼朝が挙兵に踏み切ったとき、真っ先に滅ぼさなければならない対象は、山木兼隆をおいて他にはいなかったといえるでしょう。こうして、頼朝による平家討伐の、最初の一矢が発せられることとなるのです。
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