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村上海賊はカリブやヨーロッパの海賊と同じなのか

村上海賊とは中世の日本における、瀬戸内海地方で活動していた海賊です。勢力拠点は、芸予諸島を中心として中国地方から四国地方に渡る海域になっています。

その後村上海賊は、大きく分けて能島村上家・因島村上家・来島村上家の三家へ分かれることに。その多くは真言宗徒であって、京都などにもたくさんの菩提寺が残っています。また今でも瀬戸内周辺の地域には、末裔が多く住んでいるそうです。

日本に海賊が?

日本にも海賊がいたと聞いて、「えっあの海賊が?」と驚く方も多いことでしょう。一般に海賊とは、カリブ海を荒らしまわったカリブの海賊や地中海で大暴れした海賊などが思い浮かびますよね。狙いを定めた船舶が通りかかると、突然にどくろの旗をなびかせて襲い掛かる。なんて、そんな海賊が瀬戸内海に進出していたら、時の権力者が討伐軍を遠征させたことでしょう。

「村上海賊」とは「村上水軍」とも呼ばれ、カリブや地中海の海賊とは全く違う存在なんです。名前が海賊と付いているので、ちょっと誤解してしまいますよね。では、瀬戸内海に出没した海賊とは、いったいどんなものだったのでしょう。

想像とは違う水軍

風光明媚な瀬戸内海の中でも、特にたくさんの島が浮かぶ芸予諸島。潮の流れも激しく、各所で渦巻が見られる芸予諸島で活動していたのが「村上海賊」なんです。

海上交通の要所を支配していて、高水準の文化的な生活を送っていたと伝えられています。一般的にイメージする「海賊」とは、相当に異なった「村上海賊」、本当の姿とは、どのようなものだったのでしょう。

瀬戸内海の島々で広範囲に活動していた「村上海賊」の生業は、「海賊」という言葉からは、かなりかけ離れていました。瀬戸内の要衝に関所を設けて、水先案内人を派遣したり海上警護などを行っていたのです。言わば、海の安全を守る海上警察のような集団だったのですね。

「海の大名」と呼ばれたこともあったそうで、一種独特の海城が、今でも残っています。特に有名なのが、能島城でしょう。小説の舞台になってからは、訪れる観光客も増えたそうです。しまなみ海道周辺には、村上海賊ゆかりの地も点在していて、観光スポットになっています。

優れた戦闘集団

戦国時代において、因島・能島・来島の3島が「村上海賊」の本拠地でした。そして、3つの村上家が存在していたそうです。海上での戦いや兵糧輸送など、海での動きでは抜群の能力を発揮した「村上海賊」、有力な大名とも結びついて勢力を拡大していきます。

実は1576年には、あの織田信長の船団とも戦っているのです。「第一次木津川口の戦い」は戦国ファンには有名で、「村上海賊」が大活躍をして勝利しています。

卓越した「村上海賊」の戦い方は、水軍の兵法書とされる「村上舟戦要法」として伝わっているんですよ。司馬遼太郎の小説でテレビでも放映された「坂の上の雲」。この話の主人公になっている秋山真之は海軍の軍人で、日本海海戦の時にはこの「村上舟戦要法」を参考にしたと言われています。

ロシアのバルチック艦隊を打つ破ったのは、「村上海賊」の戦法だったなんてロマンですね。

文化人としての一面も

「村上海賊」、海賊とは言っても、高い教養を誇る「文化人」でもあったのです。そんな一面を表した証として、日本総鎮守で有名な由緒ある「大山祇神社」での逸話があります。

「村上海賊」の面々は、戦いの前に自らの思いを詠み連ねた「法楽連歌(ほうらくれんが)」を奉納しているのです。連歌を詠んで武運を祈る、教養がないとできないことですね。

現在でも因島では、水軍が出陣するにあたって、戦勝を祈願して踊った「椋浦の法楽踊り」が伝わっているんですよ。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早10年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。10年以上前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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