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系図から見た徳川千代姫

徳川千代姫(ちよひめ)は、3代将軍徳川家光の長女です。後に尾張徳川家の光友と結婚した人ですが、系図で見るとなかなかすごいのでご紹介してみますね。

1、父家光は結婚に失敗

3代将軍家光は、1604年7月、徳川秀忠の次男として正室お江を母に江戸城西の丸で誕生しました。

両親は、子供の時は利発で母の伯父の織田信長にそっくりと言われた弟忠長ばかり可愛がったので、家光は自殺まで考えましたが、乳母の春日局が駿河まで走って祖父家康に訴えたので、無事後継ぎとなれたといわれています。

そして19歳の時に征夷大将軍に就任、「生まれながらの将軍である」と広言し、同じ年に公家の鷹司家の孝子と結婚したのです。が、2歳年上の孝子と家光は、結婚当初から非常に険悪で、実質的な夫婦生活はなく、孝子は「中之丸様」と呼ばれて別居生活(軟禁生活)を送ったということです。

2、父家光は女性嫌いだった?

そういうわけで、結婚で躓いた家光、これは正室孝子のせいではなく、家光が10代からゲイ傾向にあったからだといわれています。

しかし将軍となれば、後継ぎの男の子が絶対必要ということで、特に家光命の乳母春日局は必死になったようです。

春日局は、どうにか家光に女性に興味を持ってもらおうとして、身の回りの世話をする女中を用意。そして家光が気に入るならばどんな女性でもいいとばかりに、家柄などにこだわらず好みのタイプを街でスカウトしたくらいでした。

家光の最初の側室と言われる「お振」は、春日局の側近の祖心尼の孫で、春日局の養女として大奥入りし、春日局と祖心尼は、「お振」を男装させて家光に近づけて、お手付きにしたと言われています。

2、お振の曽祖父はなんと石田三成

ところで、「お振」の母は祖心尼の娘で、父は蒲生家の家臣岡重政の子岡吉右衛門。この吉右衛門の母は石田三成の娘なので、お振は三成の曾孫になるのです。そして「お振」は、1637年に家光の初めての子「千代姫」を産みました(なお、お振は産後の肥立ちが悪くて数年後に死去)。

そういうわけで、家光の娘「千代姫」は、父方から曽祖父に徳川家康と浅井長政、曾祖母がお市の方、母方の高祖父が石田三成という、なんともすごい家系図を背負って生まれてきたのでした。

3、千代姫の家系は現在まで続く

千代姫は、2歳で尾張徳川家の従兄に当たる12歳年上の光友と結婚。このときの三つ葉葵の家紋をちりばめた豪華な婚礼調度(初音の調度及び他の調度、文書類)が、現在も残されています。

千代姫の輿入れ後、名古屋城へ送られてお蔵入りしていたせいか、ほとんど使用した形跡がないということで、1996年に国宝に指定されました。

そして千代姫は、後の尾張藩主綱誠(つなのぶ、またはつななり)、長女豊姫(夭折)、次男義行(のちの高須藩主)、次女直姫(夭折)を産みました。

千代姫は、1698年12月に62歳で死去し、増上寺に葬られましたが、尾張徳川家を通して、唯一家光の血を、そして石田三成の血を、数々の大名家から現天皇家にまで、伝えているということです。

まとめ

徳川3代将軍家光は、女嫌いでゲイ傾向があり、正室とは別居状態で跡継ぎの誕生が危ぶまれました。
そして乳母の春日局が側近の祖心尼の孫「お振」を養女とし、男装させて家光の御手付きにしたのです。

「お振」の曽祖父はなんと石田三成、そしてようやく生まれたのが「千代姫」でした。千代姫の言動や容姿などは伝わっておらず、ただ婚礼家具が国宝に指定されたのみですが、千代姫のおかげで、家光や三成の血脈が脈々と現在まで伝わっているというお話でした。

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  この記事を書いた人
angelica さん
子供の頃からの歴史好きです。 特に、女性史と外国人から見た日本史に興味を持っています。 最近は、ネット検索でどこまでも系図をたどったり、 再評価された人物とか、新しい発見とかを見つけて 学び直すなど、改めて歴史を楽しんでいます。

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