「渡辺守綱」は徳川十六神将にも選ばれた遅咲きの名将だった!

渡辺守綱の肖像(守綱寺所蔵 出典:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%AE%88%E7%B6%B1" target="_blank">wikipedia</a>)
渡辺守綱の肖像(守綱寺所蔵 出典:wikipedia
 「いぶし銀」という言葉がある。主役でなくとも、本当の実力や評価の高い人を指す言葉だそうだ。極めて少ない史料からその足跡をたどると、渡辺守綱(わたなべ もりつな)はまさに「いぶし銀」と言うにふさわしい武将だと評価するに至った。それでは一見地味だが、ぎっしりと身の詰まったその生涯を紹介していこう。

家康とは同年生まれ

 渡辺守綱は天文11年(1542)、三河松平家臣・渡辺高綱を父として生を受けた。主君である徳川家康とは同年生まれである。

 渡辺氏の出自は嵯峨源氏とされ、源綱(みなもと の つな)が渡辺氏を称したのが始まりだとされている。その後、三河渡辺氏の発祥に至るのであるが、それは足利義満の家臣・渡辺道綱が三河額田郡浦部村に移り住んだことに端を発するようだ。三河松平宗家に仕えるようになったのは、家譜によれば道綱の子、範綱の代であるという。

槍半蔵

 半蔵と言えば、服部半蔵正成の異名・「鬼半蔵」が有名であるが、守綱の「槍半蔵」はあまりよく知られていない。実は、守綱の通称が半蔵であったいうこと自体があまり知られていないことも、「槍半蔵」の知名度を低迷させる一因となっていると思われる。

 永禄5年(1562)に三河八幡の戦いで今川方の板倉重貞に家康方が敗れた際に、後尾にいた守綱が殿(しんがり)を務め、槍で大奮戦したことが「槍半蔵」という異名のいわれであるようだ。桑名藩の史料には、この頃のものと思われる逸話が残されている。

── ある戦の陣中で、家康が半蔵正成を評して、「そのほうの働きは、まさに鬼槍だ」と言ったところ、守綱は「それがしの働きはいかがでしたか」と問うた。家康は「そなたの働きは槍半蔵である」と答えたという。──

 まだ若かった守綱は、槍働きの実力を認めてもらうために必死だったのではないかと私は考えている。

 守綱の初陣は弘治3年(1557)であったという。初めて敵将の首を取ったのは、永禄4年(1561)の長沢城攻めの時であった。城を守る今川方の武将・轟木武兵衛(とどろきぶへえ)を槍で仕留めたのである。先の三河八幡の戦いの1年前のことである。

 このころの武将にとって、立派な「異名」は自己のブランド化につながる重要なアイテムだったのではないか。奇遇なことに、服部半蔵正成も守綱と同年生まれであったという。守綱は同い年で同じ半蔵の名を持つ正成を、強く意識したに違いない。秀吉の二人兵衛ならぬ、家康の「二人半蔵」の誕生にはこうした背景があったのではないだろうか。

三河一向一揆

 「槍半蔵」の異名を得て、自己のブランディングに成功した守綱であったが、ここで思わぬ事態に遭遇する。三河一向一揆の勃発である。

 守綱は熱心な一向宗の門徒であったから、かなり微妙な立場に置かれることとなった。そもそも、三河は一向宗が極めて盛んな国であったから、家康が三河平定を志向するようになると、両者が対立することは必然と言ってよいであろう。

 この一揆では、家康のほぼ半数の家臣が一揆方として戦ったと言われ、まさに国を二分する争いであったことがわかる。

 守綱はどちらにつくか、かなり迷ったと思う。信仰心と忠義心を秤にかけたとき、やや信仰心に傾いてしまったのは家康との「距離」ではなかったか。

 守綱が家康に仕え始めたのは弘治3年(1557)頃と言われるが、当時家康はまだ人質として駿府にいたから、日々主君と対面して仕えていたわけではない。この状況では、主君に対する愛着が今一つ湧かないであろうし、その器量を推し量ることも困難だったと思われる。

 伝聞でわかることと、対面でわかることにはかなりの隔たりがあるものだ。

 離反した家臣たちは口々に、「主君の恩は現世のみなれど、阿弥陀如来の大恩は未来永劫つきませぬ」と言ったと言うから、皆、守綱と似たり寄ったりの心境であったのだろう。しかし皮肉なことに、この三河一向一揆は若き家康の非凡さを、離反した家臣たちに見せつける結果となった。

 三河一向一揆の記事でも書いたが、家康は自ら2度も突撃をかけ、戦いの帰趨を決めている。これは、忠義心と信仰心の板挟みとなっている家臣の心理をついた策であるが、凡庸な武将には到底実行できない策であろう。

 そして一揆勢と和議を結ぶや、一向宗の寺院に改宗を迫り、拒否した寺院は強引に破却するという剛腕をふるっている。その上で、離反した家臣には寛大な態度で臨んだから、守綱を初めとしてその多くは家康のもとに帰参したのであった。おそらく、守綱は家康の手腕に恐れ入ったのではないか。


怒涛の活躍

 三河一向一揆の後、守綱は次々と武功を挙げる。

 元亀元年(1570)の姉川の戦いでは一番槍を挙げている。一番槍とは戦闘において、最初に槍で手柄を挙げた者のことを指す。元亀3年(1572)の三方が原の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いでは先鋒を務めた。特に長篠の戦いではあの山本勘助の嫡男・菅助を討取っている。

 この一連の功績に対する褒賞は100貫文の領地のみであった。不遇とも言える論功行賞であったが、守綱は意に介さず手柄を立て続ける。この行動には家康に対する忠義を示し続けるという意図も勿論あったであろうが、「槍半蔵」というブランドを汚すまいという気概が感じられるように思う。

 天正10年(1582)の本能寺の変後、秀吉が台頭してからも守綱は変わらず槍働きに励み続けた。天正12(1584)の小牧長久手の戦いでは先鋒を務めている。

小田原征伐以降

 天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏が滅ぶと、豊臣秀吉は家康に北条氏の所領であった関東地方への移封を命じた。家康はそれに従い、関東に入り江戸を本拠と定めた。

 このとき、守綱は武蔵比企郡に3000石の所領を与えられ、50人の足軽を抱える足軽組頭となった。調べると、当時は大体1貫文=2石位のレートだったというから、いきなり所領が150倍位になったというところか。「槍半蔵」ブランドは、ここにきてやっと値を上げ始めたといってよいであろう。

 慶長5年(1600)、関ケ原の戦いが起こるが、守綱は足軽100人を率いて旗本として戦いに参加したと伝わる。東軍の勝利に貢献した守綱は家康から1000石を加増され、当時珍しかった南蛮胴を拝領したという。

 そして、ここからさらに「槍半蔵」ブランドは高値をつける。慶長13年(1608)、守綱は尾張藩主となった徳川義直の付家老に任ぜられた。さらには、武蔵4000石に加えて、尾張岩作5000石、三河寺部5000石を加増され、合計1万4000石を領有する大名格の武将となったのである。

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣では、初陣である義直の後見として参陣。その後は尾張に入国した義直を養育・補佐する日々を送っていたという。

 たしかに、守綱は、三河一向一揆の際には「主君の恩は現世のみ」と考えていたかもしれない。しかし、渡辺半蔵家2代となった重綱も後に尾張藩の家老となり、それ以降、渡辺半蔵家は明治維新まで存続し、明治維新を迎えているのだ。つまり、主君徳川家の恩は子々孫々に至るまで尽きなかったことになる。

 元和6年(1620)、守綱はこの世を去る。当時としては大往生の享年79であった。
 

あとがき

 執筆を終えてふと疑問に思ったことがある。家康はなぜ守綱を義直の付家老に任じたのだろうか。

 尾張は、大坂の陣までは上方の抑えとして重要であったという点はもちろんあるだろう。ところが、守綱は大坂の陣の後も付家老として尾張に留まっているのだ。

 私が史料を調べた限りでは、それに関する記述は見つからなかった。そこで、徳川義直について調べてみると興味深いことがわかった。義直は、文武に優れ藩政にも積極的に取り組む名君であったと伝わるが、家康同様、鷹狩りを非常に好んだという。

 また、寝ている際に襲われても対処できるよう、寝返りを打つ度に脇差を手元に置き、さらには絶えず手足を動かして寝ていたとも言われている。

 これは、どう考えても戦国武将の所作であろう。この所作を身に付けさせたのは守綱ではないだろうか。家康は、自分の子の中で戦国武将的な気質を有していそうな義直を、守綱に養育させることで、武士の模範を世に示そうとしていたように思えてならない。そう考えると、守綱が後に徳川十六神将の1人として顕彰されたのも頷ける気がするのである。


【主な参考文献】
  • 菊池裕之『徳川十六将 伝説と実態』 KADOKAWA   2022年
  • すずき孔(著)・小和田哲男(監修)『マンガで読む 戦国の徳川武将列伝』戎光祥出版 2016年
  • 『コンパクト版 徳川一族大全』廣済堂出版 2018年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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