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【やさしい歴史用語解説】「烏帽子」
- 2022/04/01
しかし歴史や特徴について詳しい方はあまりいらっしゃらないのでは?そこで今回は烏帽子について解説してみたいと思います。
烏帽子は日本独自の帽子ですが、元来の姿は中国大陸から伝わったものでした。それが「冠(かんむり)」と呼ばれるものです。冠といっても王様が頭に載せる王冠みたいなシロモノではありません。聖徳太子の肖像画などを見ると、頭に被っている帽子のようなもの。あれが冠です。
中国の漢代に被り物が作られ始め、日本でも「古事記」「日本書紀」などに早くも冠や笠のワードが見えています。聖徳太子が被っている冠は仏教の伝来とともに大陸からから入ってきたものでしょう。聖徳太子の業績では「冠位十二階」が有名でしょうか。朝廷に仕える臣下を12の階層に分け、それを色別に分けた冠を授けたというものです。
奈良時代に入った天武天皇の頃、冠が正装であるいっぽうで、略装の際に被る圭冠(けいかん)が生まれました。やがてこの圭冠が烏帽子へと変化していくのです。
ちなみに「伝源頼朝像」とされる足利直義の肖像画を見てみましょう。被っているのは烏帽子かと思いきや、実は冠なのです。この肖像画は束帯姿ということもあり、あくまで正装を表していますね。
天皇は普段から宮中にいらっしゃるため、常に冠を被られています。烏帽子を着用できるのは退位して上皇となってからのことでした。貴族の場合は、朝廷へ出仕するときは冠をかぶり、普段は烏帽子を被っていたわけですね。
平安時代には、貴族や武士だけでなく、庶民も日常的に烏帽子を被るようになりました。また被る人の身分によって烏帽子の形も大きく変化したのです。
例えば貴族は絹紗や麻といった高級な材料を使い、見事な「立烏帽子」となっています。そこから身分が低くなるにつれて烏帽子も低くなっていき、武士は細かく折り目が付いた「侍烏帽子」、身分の低い者などは木綿のような布地を使った「萎烏帽子」を被っていたそうです。
室町時代になってくると烏帽子の存在は薄れていきます。元服の際に烏帽子を被ることが儀礼となっていたものが、前髪を落としたり、月代(さかやき)を作るといった儀式に変容しました。また烏帽子を日常的に被らない「露頂(ろちょう)」という習慣が根付いた時代です。
江戸時代になると公家以外に烏帽子を被る習慣はなくなり、武士も特別な儀礼以外は烏帽子を被らなくなりました。いっぽうで笠や頭巾といった被り物の種類はますます豊富となり、天下泰平とともに華々しく流行したといいます。
現在では神社の神官、相撲の行司、歌舞伎などでしかお目にかかれない烏帽子ですが、古き良き日本の伝統として残ってほしいものですよね。
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