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『吾妻鏡』で読む大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2)『吾妻鏡』の文体

前回の記事では、『吾妻鏡』の概説として、平安時代末期から鎌倉時代前半にかけて(1180年から1266年までの87年間)の歴史を、鎌倉幕府創設を担った東国武士の視点から描いた画期的な歴史書であることをお話ししました。

★前回の記事 https://sengoku-his.com/1351
今回は、『吾妻鏡』の文体について、具体的に紹介しておきたいと思います。

手っ取り早く、『吾妻鏡』の最初の記事を引用しましょう。治承4年4月9日(ユリウス暦1180年5月5日)、以仁王の挙兵を記したものです。なお、原文の割注(わりちゅう。本文の途中で、2行に細かく割って記した注記のこと)は、〔〕でくくって載せました。

九日辛卯。入道源三位頼政卿。可討滅平相国禅門〔清盛〕由。日者有用意事。然而以私計略。太依難遂宿意。今日入夜。相具子息伊豆守仲綱等。潜参于一院第二宮之三条高倉御所。催前右兵衛佐頼朝以下源氏等。誅彼氏族。可令執天下給之由申行之。仍仰散位宗信。被下令旨。而陸奥十郎義盛〔廷尉為義末子〕。折節在京之間。帯此令旨。向東国。先相触前兵衛佐之後。可伝其外源氏等之趣。所被仰含也。義盛補八条院蔵人〔名字改行家〕。

ぱっと見て、漢字だらけですね。つまり、漢文(古典中国語)に似た文章です。しかし、これは文法的に正規の漢文ではありません。

例えば「折節在京之間」という一句は、中国語として解釈すると、全く意味を成しません。「折節」は漢語ではなく、和語の「おりふし」、つまり「ちょうどそのころ」という意味の副詞です。
「〇〇之間」も漢語ではなく、「〇〇のあいだ」と読み、「〇〇なので」という意味で理由を表す、和語の接続詞です。

まとめると「陸奥十郎義盛が、ちょうどそのころ京に滞在していたので」という文意になります。

このように、『吾妻鏡』の文体は、正規の漢文ではなく、和語の影響を受けた変則的な漢文なのです。このような文体を「変体漢文」(へんたいかんぶん)または「和化漢文」(わかかんぶん)と呼びます。

これは平安時代の貴族の日記で常用されたものです。いうなれば、『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の日記という形式で編纂された歴史書なのです。

したがって、本当に『吾妻鏡』を読もうと思ったら、変体漢文を読む能力が必要になりますが、一般人にはとっつきにくいものです。そこで一つの解決法として、「書き下し文」(かきくだしぶん)にするという方法があります。つまり、漢字だけの文章を、漢字仮名交じりの文章に書き換えるのです。

岩波文庫では、1935年から1944年にかけて、龍粛(りょう・すすむ)氏による書き下し文が全8冊予定で刊行されました。ただし戦時中のためか、第5冊(1238年まで)で未完となっています。ここでは、句読点・読み仮名・送り仮名を適宜補って引用しておきます。

九日、辛卯、入道源三位頼政卿、平相国禅門〔清盛〕を討滅す可(べ)き由、日者(ひごろ)用意の事有り。然れども、私の計略を以ては、太(はなは)だ宿意を遂げ難きに依り、今日夜に入りて、子息伊豆守仲綱等を相具して、潜(ひそ)かに一院の第二宮の三条高倉の御所に参り、前右兵衛佐頼朝以下の源氏等を催して、彼の氏族を討ち、天下を執らしめ給ふ可きの由、之(これ)を申し行ふ。仍(よ)つて、散位宗信に仰せて、令旨を下さる。而(しこう)して、陸奥十郎義盛〔廷尉為義の末子〕折節在京の間、此令旨を帯して東国に向ひ、先づ前右兵衛佐に相触るるの後、其外の源氏等に伝ふ可きの趣、仰せ含めらるる所なり。義盛は八条院蔵人に補せらる〔名字を行家と改む〕。

原文は漢字ばかりで目が泳ぎますが、こうなると多少読みやすくなったのではないでしょうか。ただし、依然として古文であることは変わりませんから、現代の私たちは、これを解釈して現代文にする必要があります。つまり、現代語訳です。

近年では吉川弘文館が、2007年から2016年にかけて、五味文彦氏・本郷和人氏の編集による『現代語訳吾妻鏡』全16巻(+別巻1)を刊行しました。そこでは以下のように現代語訳されています。

九日、辛卯、入道源三位頼政卿は、平相国禅門清盛を討ち滅ぼそうと兼ねてから準備していた。しかし、自分ひとりの力ではとても前々からの願いを遂げることは難しいので、この日、子息伊豆守仲綱を伴い、一院(後白河)の第二皇子である以仁王がお住まいの、三条高倉の御所に密かに参上した。「前右兵衛佐(源)頼朝をはじめとする源氏に呼びかけて平氏一族を討ち、天下をお執りになってほしい。」と申し述べると、(以仁王は)散位(藤原)宗信に命じて令旨を下された。そこで、廷尉(源)為義の末子である陸奥十郎義盛が折しも在京していたので、「この令旨を携えて東国に向かい、まず頼朝にこれを見せた後、そのほかの源氏にも伝えるように。」とよくよく仰せられた。義盛は八条院の蔵人に任ぜられ、名乗を行家と改めた。

ここまでの操作を経て、ようやく、現代の私たちにもすんなりと読める文章になりました。
「三条高倉の御所」「廷尉」「八条院」など、広く知られてはいない用語もありますが、『現代語訳吾妻鏡』では、これらについて巻末に注釈を載せています。これによって、『吾妻鏡』は広く読みやすい文献になったといえるでしょう。

以上のように、現代の私たちが読むことのできる『吾妻鏡』には、3種類の文体があります。

第一に、変体漢文(和化漢文)で書かれた原文。
第二に、それを漢字仮名交じりにした書き下し文。
第三に、さらにそれを現代語訳したものです。ただし、書き下しや現代語訳は、研究者の読み癖や解釈によって、少しずつ差が出てきます。

私の記事では、基本的には書き下し文を紹介したうえで、私なりに現代語訳を施そうと思っています。書き下し文は岩波文庫、現代語訳は吉川弘文館版を参照しますが、どちらもそのまま引用することは避けるつもりです。もしご興味をお持ちいただければ、ご自身で書籍をお読みいただけると幸いです。

〔リンク〕
『吾妻鏡』原文(『続国史大系』第4巻):https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991111
書き下し文(龍粛訳注、岩波文庫):https://www.iwanami.co.jp/book/b245710.html
現代語訳(五味文彦・本郷和人編、吉川弘文館):http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32673.html

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  この記事を書いた人
愛水 さん

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