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イギリス人の日本画家・河鍋暁英の正体は?

河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)は幕末から明治にかけて活躍した日本画家です。暁斎は弟子の数も多く、その中にはなんと、イギリス人もいたのです。

それは今から150年ほど前、明治初期のことでした。明治政府は欧米列強に追いつくため、教育や産業、医療などの分野で「お雇い外国人」を雇い入れました。
今で言うなら「助っ人外国人」ですね。

その中に一人のイギリス人がおりました。名前はジョサイア・コンドル、建築家です。今も残る岩崎邸や三菱一号館などのほか、明治初期には「鹿鳴館」を設計しています。日本の風土にあった洋館を設計し、大学では日本人建築家を育てました。

お雇い外国人、日本にハマる

お雇い外国人というと、日本での仕事が終わるとさっさと母国へ帰ってしまうものですが、なぜかコンドルは、政府の仕事が終わってもそのまま日本に留まります。

コンドルはどうやら、日本と日本文化にハマってしまったようで、民間の建築事務所で仕事をしつつ、落語を聞きにいったり、生花をやったりと日本ライフを満喫していました。(生花に関しては本を書くほどのハマっていたようです。)

その後、コンドルは日本人の奥さんをもらい、日本に根を下ろした生活をはじめました。そして今度はなんと、日本画家・河鍋暁斎へ弟子入りすることに。

※河鍋暁斎(wikipediaより)
※河鍋暁斎(wikipediaより)

お雇い外国人、日本画家になる

19世紀末はヨーロッパ中で日本の絵画や陶磁器、工芸品など、いわゆる「ジャポニズム」が一大ブームとなっていた時代です。

特に浮世絵と日本画はゴッホをはじめ、印象派のモネ、ルノワールなどの有名画家たちにも愛されていたアートでした。

そんなジャポニズムアートへの憧れからか、ともかくコンドルは河鍋暁斎へ弟子入りし、仕事の傍ら、まじめに画業に励みます。

この風変わりな西洋人の弟子を、河鍋暁斎はとてもかわいがり、後に「暁英」という画号をつけています。

※「暁英」こと、ジョサイア・コンドル
※「暁英」こと、ジョサイア・コンドル

河鍋暁斎自身も、歌川国芳から狩野派、さまざまな流派の技法をこだわりなく学んだ人でしたし、河原の生首(!)や、自分の奥さんの死に顔を写生したり、政府批判で投獄されたりと、波乱万丈で破天荒な人でした。

だからこそ河鍋暁斎は、日本文化をこよなく愛する、この一風変わったイギリス人弟子のことを面白がり、彼の持つセンスを愛していたのかもしれません。

河鍋暁斎が描いた絵日記を見ると、コンドルが大きい体を横たわらせながら筆をとる姿が描かれています。

また、絵の上達の褒美として、自分の絵を気前よくぽんとコンドルに与えたり、一緒に写生旅行に行ったりと、非常に仲が良かったそうです。

暁斎の死後、コンドルは師匠の画業をヨーロッパに紹介することで、師匠の名を後世に残そうと活動をつづけました。

まだまだアジアへの差別意識があった19世紀。師匠と弟子、日本とイギリスといった、国境も人種も超越した河鍋暁斎とコンドルの友情関係はとても粋でかっこいいです。

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  この記事を書いた人
日月 さん
古代も戦国も幕末も好きですが、興味深いのは明治以降の歴史です。 現代と違った価値観があるところが面白いです。 女性にまつわる歴史についても興味があります。歴史の影に女あり、ですから。

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