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日本史における最大の謎、空白の4世紀で何があったのか。

はじめに

古代日本を知る手がかりになる史料は基本的に朝鮮や中国の歴史書しかありません。しかし、3世紀の『魏志倭人伝』から5世紀の『宋書倭国伝』までの記録が全くないため、日本史における4世紀は「空白」の時代とされています。

なぜ史料がないのかというと、大陸が内戦によって不安定だったからです。中国・朝鮮から渡ってきた人がいたけれど史料が紛失してしまったのか、それとも全く誰も来なかったのかも分かりません。

本稿では、日本の「空白の4世紀」で起こった変化について見ていこうと思います。

「邪馬台国時代(3世紀)」から「古墳時代(5世紀)」への変化

女王・卑弥呼で知られる「邪馬台国」の時代から巨大な「古墳」が作られる5世紀までの変化としては主に以下の3つがあります。

① 王権の誕生
② 墓の巨大化
③ 馬・馬具の存在

次章からはそれぞれの事柄について細かく解説していきます。

① 王権の誕生

「邪馬台国時代」といっても、3世紀には邪馬台国以外にも不弥国や伊予国など30国を超えるクニが日本には存在していました。

邪馬台国の位置についてはいまだに様々な説が飛び交っていますが、5世紀には「大和王権」という巨大政権が現在の奈良県あたりに誕生したとされています。

つまり、3世紀から5世紀の間に日本の統一に近い出来事が起こったということです。

② 墓の巨大化

5世紀には王権の誕生に伴って、権力者の墓が巨大化しました。これが「古墳」と呼ばれるものです。
たとえば、大阪府の大山古墳は仁徳天皇陵として知られています。

日本最古の古墳は奈良県の「箸墓古墳」で、全長280メートル・髙さ30メートルもある前方後円墳です。実は、この箸墓古墳は3世紀後半に作られたとされています。

『梁書』によると、249年までに卑弥呼は死去しているため、箸墓古墳が作られた3世紀後半は台与によって倭国は統治されていた可能性があると考えられます。

箸墓古墳の被葬者については卑弥呼説や台与説などがありますが、宮内庁によると第7代孝霊天皇の皇女の墓であるといいます。

このような史実を踏まえると、邪馬台国と大和王権は全く異なる勢力だったのかもしれません。

③ 馬・馬具の存在

『魏志倭人伝』によると、邪馬台国をはじめとするその他のクニでも馬は存在していなかったといいます。しかし、5世紀の遺跡からは馬の骨や馬具も発掘されています。

邪馬台国時代に存在していなかった馬が唐突に誕生するはずがないので、大陸から船に乗せて渡らせてきたと考えられます。

その目的は分かりませんが、朝鮮や中国と交流を活発にしていた「邪馬台国時代」から一変して朝鮮や中国と交流を絶っていたことを考えると、4世紀の間に王権制度が変わったのかもしれません。

5世紀になると再び交流を始めていますので、4世紀からまた情勢が変化した可能性も考えられます。

おわりに

今回は空白の4世紀を隔てて、変化した3世紀から5世紀の日本について見てきました。

空白の4世紀については何の史料もないため、遺跡の発掘や単なる予想でしか、その時代の情勢を捉える方法はありません。

ただ、大山古墳などの天皇陵は宮内庁によって発掘が禁止されているため、なかなか学術的な調査が進まないのが現状です。

そんな中、2021年11月には宮内庁によって2度目の大山古墳調査が行われました。今後も古墳の発掘を進めていけば、天皇家のルーツに関する問題や大和王権に繋がる歴史的史料が見つかるかもしれません。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

【参考文献】
『日本史B 新訂版』、実教出版株式会社、2019年
山本博文『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 1 日本のはじまり 旧石器~縄文・弥生~古墳時代』、株式会社KADOKAWA、2015年

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  この記事を書いた人
一茶 さん

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