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誹諧の名人「松尾芭蕉」忍者説は嘘?肯定派・否定派の主張を徹底比較!!

誹諧の名人「松尾芭蕉」が忍者だったという説は皆さん耳にしたことがあると思います。しかし、肯定派・否定派それぞれの主張もかなり脚色されたものが多く散見されます。

今回は、「松尾芭蕉」忍者説について肯定派・否定派両者の主張や根拠を比較しながらその真相に迫りたいと思います。

【松尾芭蕉って誰?】

誹諧の名人として知られる「松尾芭蕉」ですが、その生まれは誹諧と全く関係のないものでした。

1644年(寛永21年)、松尾芭蕉(松尾忠右衛門宗房)は忍者の国として有名な伊賀の国に生まれました。父親の松尾与左衛門は農民(無足人)で忍者の血筋ではありましたが、江戸時代は戦争がほとんどなかったため、忍者を本業とする者は少なかったといわれています。

故郷の伊賀を出て江戸での生活を始めた芭蕉は、当時江戸で流行っていた西山宗因や井原西鶴を中心とする談林派の俳諧に影響を受け、誹諧の世界へ足を踏み入れることになったといいます。

その後、誹諧の宗匠となった松尾芭蕉は深川(現在の東京都江東区)の草庵で、これまでの洒落・滑稽を主とした誹諧とは異なり、寂・撓り・細み・軽みを重んじる幽玄で閑寂な気品高い「蕉風」を確立しました。

1694年(元禄7年)に50歳で亡くなるまで、松尾芭蕉は誹諧の旅に出て様々な紀行文を生みました。その中でも有名なのが「おくの細道」です。

【「松尾芭蕉」忍者説 ①1日40㎞歩行】

「おくの細道」によると、松尾芭蕉は約140日の日程で全国15か国、およそ450里を旅しています。1里は約3.9㎞ですので、約140日で約1760kmを歩いたことになります。

特に福島~郡山間の約46㎞を一日で歩いているのは驚きです。

この内容に対する見解が「松尾芭蕉」忍者説の肯定派・否定派を分ける部分となります。

・肯定派『芭蕉は当時45歳、さすがに忍者』

松尾芭蕉が弟子の河合曽良と一緒に「おくのほそ道の旅」に出発したのは1689年(元禄2年)で、芭蕉はその時45歳でした。

芭蕉が亡くなるのはその5年後ですから、身体的にも比較的老いていたと考えるのが妥当です。そのような状態で、約46㎞を一日で歩くのはさすがに常人の所業ではないといえるというのが肯定派の主張です。

・否定派『芭蕉はただの健脚』

否定派の主張としては、徒歩での移動が当たり前であった江戸時代の人々にとっては、40km程度は難なく歩くことができたというものです。

江戸時代の成人男性が一日で歩く距離は約40㎞で、女性や老人なら約32㎞、盗賊や放火を取り締まる役人は約79㎞、忍者は約118㎞といわれていますので、芭蕉はただの健脚だったともいえるでしょう。

【「松尾芭蕉」忍者説 ②松島素通り】

「おくの細道」の旅へ出る前に、松尾芭蕉は松島(現在の宮城県)を訪れることを心待ちにしていました。松島は日本三景の1つで、「相対性理論」で有名な物理学者「アイン・シュタイン」も訪れています。

そんな松島に、芭蕉は長期滞在せず一泊しかしませんでした。加えて、俳句すら残していないのです。その理由として芭蕉は「あまりの絶景過ぎて言葉が出なかった」と述べていますが、ここが解釈の分岐点となっています。

・肯定派『旅自体、他に目的があったのではないか』

その目的とは、伊達藩の動向を偵察することです。

当時、江戸幕府は徳川家康の墓である日光東照宮の修繕を伊達藩に命じていました。莫大な費用のかかる修繕命令に対して、伊達藩が幕府に不満を持ち謀反を起こさないよう内情を偵察することが芭蕉に課せられた任務だったのではないかと肯定派は考えているのです。

また、『曾良旅日記』には軍事的機能を備えた「出城」といわれる瑞巌寺や港などを芭蕉が詳細に見物していた様子が記されています。

・否定派『旅はそう単純じゃない』

芭蕉は一日で約40㎞もの距離を歩くことができます。そんな脚力があれば、観光名所や訪れたい場所など一日で回れるはずです。

そこに留まるかどうかは旅先の宿の状況や、次の目的地での宿確保など複数の要因が絡みますし、なんといっても芭蕉がその場所の空気を好むかどうかです。

どんなに訪れたいと思っていた場所であっても、そこで暫く暮らしたいと思うかどうかは別ではないかと否定派は考えています。

【「松尾芭蕉」 忍者説③莫大な費用負担と関所通過】

これに関しては現在でもあまり変わらないと思いますが、当時も5ヵ月にわたって旅を続けるには相当な資金が必要です。

また、当時は各地に関所が設置されており、庶民が旅行のため自由に行き来できるような状況ではありませんでした。この点も松尾芭蕉が幕府の命を受けていたという説を裏付ける根拠として肯定派は捉えています。

・肯定派『幕府の支援』

「おくの細道」の旅行費用について、一説では「曾良の旅日記」の記述から全行程で約100万円は超えると推測されるといいます。

誹諧の宗匠といってもそれほどの大金を稼ぐことができたかどうかはかなり微妙なところではないでしょうか。

また、関所を通るには通行手形が必要ですので、芭蕉が全国各地を好きなように旅をしていたということもいささか不思議な点です。

このような点から肯定派は『幕府の命を受けた旅だったために、旅費用を確保でき、各地を自由に回ることもできたのではないか』というものなのです。

・否定派『全ては曾良のおかげ』

まず、旅費用の財源についてですが、これはあくまで自費であり、曾良があらかじめ旅先の有力者に連絡しておいたおかげで安くしてもらえたという説があります。

この説は関所の通過にも関係しているといえます。曾良が旅先の有力者に連絡をしておけば、関所で無駄に足止めを食らわずに移動することができるでしょう。

おわりに

このように「おくの細道」には多くの不思議な点があります。そしてその解釈が「松尾芭蕉」忍者説を肯定するか否定するかの分かれ目となっているのです。

芭蕉が幕府と繋がっていたと疑われる原因には、①脚力 ②松島 ③費用と関所などがあり、肯定派・否定派どちらの主張も筋の通ったものだと思います。

しかし、忍者説については①脚力と出生地くらいしかなく、面白おかしく脚色された都市伝説といわれてもおかしくないように感じます。

皆さんも「おくの細道」原文や曾良の日記を読んでみると新たな発見ができるかもしれません。

お読みいただきありがとうございました。

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  この記事を書いた人
一茶 さん

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