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【必見】お寺は砦だった⁈ 乙巳の変と飛鳥寺からみる古代寺院の役割

突然ですが、「お寺」は何をする場所だと思いますか?多くの人は「仏様に祈る場所」といった、宗教的なことをする場所であると考えているでしょう。しかし、現在ではなく古代の寺院にはお祈りする以外に役割があったかもしれないと考えられています。

今回は古代寺院には軍事施設としての役割があったことを、中大兄皇子が乙巳の変後に、飛鳥寺[写真1]に立てこもった事実から解説していきます。

1、乙巳の変とは?

乙巳の変とは、皇極天皇4(645)年6月20日に起こった出来事であり、宮中で中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が、皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を暗殺した事件だと『日本書紀』で記されています。

当時の蘇我氏は、政治の全てを支配できる権力を持っており、天皇中心の政治を行うことを考えていた中大兄皇子らにとっては目の上のたんこぶのような存在でした。そして、蘇我入鹿を討ち取ることに成功した中大兄皇子は、飛鳥寺に立てこもって武力の準備を整えていました。

2、飛鳥寺とは?

次に飛鳥寺の簡単な説明に移ります。飛鳥寺は奈良県高市郡明日香村にあり、別名「大和法興寺」と呼ばれています。崇峻天皇元年(588)年に蘇我馬子によって建てられた、日本最古のお寺です。

※[写真1]現在の飛鳥寺
1956年の発掘調査では、仏様の遺骨である仏舎利(実際には骨ではなく、玉といった宝物)と塔心礎(塔の土台となる大きい石)が発見されています。

また、伽藍は一つの塔に三つの金堂を持つ配置[図1]であることも確認されました。発見された仏舎利や塔心礎、伽藍の配置、大量の瓦は、中国、韓国、西アジアにルーツを持っているものが多いです。

※[図1 ]飛鳥寺の伽藍配置(筆者作成)。最近の研究では、韓国にある百済王興寺と伽藍の配置が似ていることから、飛鳥寺のモデルを百済王興寺とみる見解が増えています。
このように中国や韓国、さらには西アジアの最新の文化や技術が飛鳥寺を建てる時に使われていることが発掘調査から分かりました。飛鳥寺を建てた蘇我氏の経済力や外交力の大きさが、この飛鳥寺から分かります。

3、飛鳥寺に立てこもった中大兄皇子とお寺の役割

乙巳の変と飛鳥寺について説明してきました。では、なぜ中大兄皇子は飛鳥寺を、立てこもる場所に選んだのでしょうか?立てこもった理由のひとつを考えるヒントが飛鳥寺の構造にあります。

1972年と1982年に行われた発掘調査で、飛鳥寺の東辺と北辺を区画する、防衛用のものと考えられる掘立柱の柵が確認され、西門の調査でも築地の下から掘立柱の柵が見つかりました。この調査により飛鳥寺は、掘立柱の柵で囲まれていることが明らかとなりました。

この結果から、飛鳥寺は防衛施設の役割もあったのではないかと甲斐弓氏は、2010年に出版した『わが国古代寺院にみられた軍事的要素の研究』で考察しています。また、飛鳥寺だけではなく、他の古代寺院においても、掘立柱の柵の存在が確認されています。

中大兄皇子が飛鳥寺に立てこもった理由のひとつに、飛鳥寺をはじめとする古代寺院には、砦(とりで)のような役割があったからかもしれませんね。

● 参考文献
・甲斐弓子2010『わが国古代寺院にみられた軍事的要素の研究』雄山閣
・奈良文化財研究所1958『飛鳥寺発掘報告書』

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  この記事を書いた人
まっさん さん
お寺が好きなどこかの大学院生です。 考古学を専攻しており、古代日本史が大好きです! 将来の夢は文化財専門職

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