「源仲章」北条義時と間違えられて殺された?後鳥羽上皇に仕え、源実朝の侍読を務めた人物

源仲章のイラスト
源仲章のイラスト
源仲章(みなもとのなかあきら)は、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が暗殺された時、実朝と一緒に殺された人物です。

仲章は実朝の侍読(教育係)を担う御家人であった一方で、後鳥羽上皇に仕える立場でもありました。そのため、仲章はスパイのような存在だったのではないか、ともいわれています。

後鳥羽上皇に仕え、御家人でもあった仲章

仲章は、宇多源氏の源光遠の子です。兄には後白河院の近臣として院細工所別当を務めた源仲国が、弟には後白河院の第6皇女・宣陽門院(せんようもんいん。覲子内親王)の蔵人を務めた源仲兼がいます。

後白河院の近臣の家に生れたことから、仲章は後鳥羽天皇の六位の蔵人に選ばれ、後鳥羽天皇のそば近くに仕えました。その一方で、鎌倉幕府の在京御家人にもなり、京の盗賊の追捕や朝廷と幕府の連絡役として活躍しています。

たとえば、建仁3(1203)年6月には幕府から阿野全成の子・頼全(らいぜん)の処刑を命じられ、翌7月には京から使いをやって頼全を処刑したことを報告しています(『吾妻鏡』より)。

学者の家に生れたわけではありませんが、のちに文章博士(もんじょうはかせ。大学寮の文章道の教官)となる仲章は、とにかく書籍を集めて学ぶのが好きだったようです。

歌人・藤原定家(ていか/さだいえ)は『明月記』の中で、百家九流に通じている、と仲章について称しています。「百家九流」とは、中国の戦国時代の諸子百家の9つの流派(儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家)のことです。

仲章はその立場から、建仁4(1204)年正月に鎌倉に下向し、実朝の侍読として学問を教えるようになりました。

将軍・源実朝暗殺事件で殺される

実朝は異例のスピードで昇進を重ね、建保6(1218)年10月には権大納言兼左近衛大将から内大臣へ、さらに12月には右大臣に昇進しました。

この右大臣昇進を祝うために、翌建保7(1219)年正月27日に鶴岡八幡宮で儀式が行われました。この日は日中の晴天から一転、夜には雪が降って2尺あまり(60smほど)積もりました。そんな中で、儀式を終えた実朝が甥(頼家の遺児)の公暁(くぎょう/こうぎょう/こうきょう)に暗殺されるという事件が起こりました。

『吾妻鏡』によれば、この時将軍の御剣を奉持するはずであった北条義時が途中で体調不良になり、御剣を仲章に渡して下がりました。そして儀式が終わった後、実朝ともども公暁によって殺されてしまったといいます。

仲章が殺された理由

同時代の天台宗の僧・慈円の歴史書『愚管抄』によれば、公暁は仲章を義時と思って殺してしまったとか。

この実朝暗殺事件には複数の黒幕説があります。事前に退席した義時黒幕説や、儀式に参加していなかった三浦義村黒幕説などです。

そうだとしたら、仲章がたとえ朝廷と幕府の二重スパイでなくとも、朝廷とのつながりをもって後鳥羽上皇と連携しながら政治を進めていこうとする実朝と、実朝と後鳥羽上皇をつなぐ存在である仲章を一度に排除してしまおうというねらいが最初からあったとも考えられます。

ただ、義時や義村にはそこまでする動機がないという説もあり、仲章が不運で殺されたのか、ねらって殺されたのかははっきりしていません。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中央公論新社、2018年)
  • 五味文彦『後鳥羽上皇 新古今集はなにを語るか』(角川学芸出版、2012年)
  • 安田元久『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館、1961年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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