「矢部禅尼」三浦義村の娘で、鎌倉幕府執権・北条泰時の正室となった女性

北条泰時の妻「矢部禅尼(大河では演:福地桃子)」のイラスト
北条泰時の妻「矢部禅尼(大河では演:福地桃子)」のイラスト
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、早くからちょこちょこ登場していました。義村の娘として登場した「初(はつ)※役名」という女性が矢部禅尼(やべぜんに)です。彼女は鎌倉幕府3代執権・北条泰時の最初の正室となりましたが、後に離縁して三浦一族の佐原盛連と再婚しました。

北条泰時の正室

建久5(1194)年2月2日、北条義時の嫡男・金剛が13歳で元服し、将軍の源頼朝が烏帽子親となって最初は「頼時(以下便宜上泰時で統一)」と名乗りました(頼朝の「頼」の字を賜った)。

その祝いの宴の中で、頼朝は三浦義澄を呼び、「泰時を婿にしてはどうか」と言いました。義澄は「孫娘の中からいい相手を選びましょう」と答えたといいます(『吾妻鏡』より)。それで選ばれたのが義村(義澄の嫡男)の娘・矢部禅尼(本名は不明)だったのでしょう。

それから8年が過ぎた建仁2(1202)年8月23日、矢部禅尼は泰時の正室になりました。その翌年には長男の時氏が生まれています。

その後、矢部禅尼と泰時は離縁するのですが、それがいつのことなのかははっきりわかっていません。泰時の次男・時実(母は継室の安保実員の娘)が建暦2(1212)年に生まれているので、その誕生までの10年の間に離縁したのでしょう。離縁になるような事件もなく、とくに不仲であったわけでもないようで、理由は不明です。

二人の執権の祖母にあたる

矢部禅尼が生んだ時氏は、承久の乱では泰時とともに京へ攻めのぼって活躍し、元仁元(1224)年には父・泰時と入れ替わるように六波羅探題北方に着任しました。

時氏は泰時の後継者として執権になることを期待されていたといいますが、寛喜2(1230)年3月28日に鎌倉へ戻ったところで病気になり、6月18日に亡くなってしまいました。まだ28歳の若さでした。

時氏は泰時の後継者となる前に亡くなってしまいましたが、二人の子、経時と時頼がのちに執権となっています。つまり、矢部禅尼は第4代執権・経時と、第5代執権・時頼の祖母にあたるのです。

離縁後の矢部禅尼

泰時と離縁した矢部禅尼はというと、今度は同じ三浦一族の佐原盛連(もりつら)と再婚していました。盛連は三浦義明の孫で、矢部禅尼の父・義村の従兄弟にあたる人物です。

嘉禄2(1226)年に京で酔っぱらって乱暴を働き、「悪遠江守」と呼ばれました。この素行の悪さから、天福元(1233)年5月、幕府によって殺されています。

矢部禅尼は夫の死後に落飾して尼になったのでしょう。三浦の矢部に住んだことから「矢部禅尼」と呼ばれたようです。『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年6月1日条に「矢部禅尼(法名は禪阿)」の名で登場し、和泉国吉井郷(現在の大阪府岸和田市)の地頭の下文を賜っています。この日の記録によれば、矢部禅尼は盛連と結婚後に光盛、盛時、時連を生んだということです。

矢部禅尼は建長8(1256)年4月10日、70歳で亡くなりました。「不食(食欲がない)」病気のためであったようです。『吾妻鏡』によれば、孫の時頼が50日喪に服したようです。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 『日本歴史地名大系』(平凡社)
  • 高橋慎一朗『人物叢書新装版 北条時頼』(吉川弘文館、2013年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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