「高師直」最強武人は傍若無人? 『太平記』最大の悪役

従来は足利尊氏像とされてきたが、師直とする説のある『騎馬武者像』(京都国立博物館蔵、出典:wikipedia)
従来は足利尊氏像とされてきたが、師直とする説のある『騎馬武者像』(京都国立博物館蔵、出典:wikipedia)
 高師直(こうのもろなお、?~1351年)は室町幕府の初代執事として将軍・足利尊氏を支えた南北朝時代随一の猛将で、室町幕府創設の立役者です。

 一方で『太平記』には、武将としては有能なものの戦功におごって増長し、傍若無人に振る舞うエピソードが満載。希代の悪役に仕立てられました。しかし、本当に悪逆非道の人物だったのでしょうか。高師直の生涯を追っていきます。

とにかく強い 南朝主力・北畠顕家、楠木正行を撃破

 高師直の前半生は不明ですが、元弘3年(1333)までに父・高師重から足利氏に仕える執事職を引き継いでいます。

 以後20年、足利尊氏の右腕として活動。足利氏執事から室町幕府執事となりますが、私設秘書から官房長官になったようなものです。室町幕府執事は鎌倉幕府執権に似たポジションで、最有力武将が就いた管領の前身となる重職です。

石津の戦い 難敵・北畠顕家を討ち取る

 高師直の特徴は武将としての圧倒的な強さです。

 まずは難敵・北畠顕家との対戦。暦応元年(1338)、鎌倉で斯波家長を討ち果たして猛スピードで西へ向かい、美濃・青野原(岐阜県大垣市など)では猛将・土岐頼遠を破った北畠顕家に対し、師直、師泰兄弟が立ち向かいます。

 2月28日、奈良般若坂(奈良県奈良市)での戦い、5月22日、和泉・堺浦石津(大阪府堺市)での戦いで師直兄弟が連勝。北畠顕家は戦死しました。

 この戦いで師直は「分捕切棄(ぶんどりきりすて)の法」を採用。敵将の首を取ったら味方を証人にして、首はその場に捨てるルールです。取った首は戦功の証拠ですが、合戦が終わるまで持ち歩くのは不便。師直独自の考案ではなく、幕府で新たに取り決めたようですが、合理性を重んじる師直らしさを象徴しています。

四條畷の戦い 小楠公・楠木正行との死闘

 10年後、高師直は「小楠公」と呼ばれた楠木正行(まさつら)と戦います。正行は「大楠公」楠木正成の長男。建武3年(1336)、湊川の戦いに臨む父に説得され、桜井宿(大阪府島本町)から引き返した「桜井の別れ」で知られます。

 父の武勇を引き継いだ楠木正行は貞和3年(1347)9~11月、室町幕府の精鋭、細川顕氏、山名時氏の軍を立て続けに破ります。そこで師直、師泰兄弟が出陣し、貞和4年(1348)1月5日、四條畷(大阪府四條畷市)で激突。兵力で劣る楠木正行は師直を狙って突進、師直の本陣は総崩れとなりました。

 それでも師直は逃げ出す兵を叱咤。

師直:「引き返せ。敵は少数だ。師直はここにいるぞ」

 そして膝を切られて血まみれで撤退する土岐周済房(土岐頼遠の兄弟)にも罵声を浴びせます。

師直:「日ごろの大言壮語はどこにいった。見苦しいぞ」

周済房:「何が見苦しいのでしょうか。ならば討ち死にして見せましょう」

 土岐周済房は引き返し、敵中に突入して戦死しました。

 楠木軍の猛攻はなおも続きますが、上山六郎左衛門という武士が身代わりとなり、師直はようやく窮地を脱します。最終的には兵力差で圧倒し、楠木正行との死闘を制しました。

 師直は余勢を駆って南朝の本拠地・吉野行宮(奈良県吉野町)に攻め込み、南朝方は吉野を退いて賀名生(奈良県五條市)へ移ります。

強いだけじゃない「思慮深き老将」

 高師直は猛将ですが、『太平記』には「思慮深き老将」「清げなる老武者」とも書かれています。

 四條畷の戦いでは敵の撤退偽装を見破り、深追いせず、冷静に対応。また、建武3年(1336)1月、大渡・山崎の戦いでは対岸の敵から挑発され、味方3000騎が川を渡ろうとすると、師直が制止します。

対岸の敵:「昔は宇治川を渡った武士が名を残している。どうしてこの川を渡らないのか!」

師直:「正気を失ったか。昔は昔。今は今。しばらく待たれよ」

 周辺の家屋を壊し、いかだを作って渡河する作戦を指示。師直は猛将ではあっても猪突猛進ではなく、現実的な戦法を取る柔軟さもありました。

塩冶高貞の美人妻に横恋慕 好色執事の宮めぐり

 高師直の傲慢さと好色ぶりを強調したエピソードとして、『太平記』に塩冶高貞事件があります。塩冶高貞の美人妻に横恋慕し、悲劇的な結果を招きます。

「菖蒲前」鵺退治・頼政への評価

 ある時、高師直は邸宅で琵琶法師の『平家物語』を聞いていました。源頼政が妖怪・鵺(ぬえ)を退治し、天皇から美女、菖蒲前を与えられるという場面です。

 これを聞いた若侍たちが

「美女をいただいたのは名誉なことだが、所領の方が良かったな」

と言うと、師直がたしなめます。

師直:「お前たちの考えは浅はかだな。菖蒲前ほどの美女なら国の10カ国や所領の20カ所、30カ所と取り替えてもよい」

 膨大な所領より1人の美女という師直の好色ぶりも極端ですが、多くの武士が過大な所領を欲しがるのも困りもの。「あまり欲張るな」と言いたかったのかもしれません。

 ここで侍従局という女房が口を挟みます。

「それでは、菖蒲前よりも美しい早田宮の姫君ならば、唐土(中国)、天竺(インド)ともお取り替えになりますか」

 侍従局の話では、この美女は後嵯峨天皇の孫・早田宮真覚の娘。今は塩冶高貞の妻となっていると知ると、高師直はがぜん興味を示します。

入浴姿をのぞき見て悶絶

 高師直は再三、塩冶高貞の美人妻に会わせるよう侍従局に仲介を依頼。『徒然草』の吉田兼好にラブレターの代筆をさせても色よい返事はなく、「能書家などは役に立たない」と吉田兼好に八つ当たりし、出入り禁止にします。

 侍従局の手引きで入浴姿をのぞき見るというハレンチな行動も。これは「化粧をしていない姿を見せれば、師直も幻滅するだろう」という侍従局の思惑でしたが、師直は素顔を見て悶絶。ますます思いを強くするのです。そして、塩冶高貞に謀反の疑いありと讒言し、攻め滅ぼしてしまいます。

塩冶高貞の美人妻の裸体を覗き見する高師直(月岡芳年画、出典:wikipedia)
塩冶高貞の美人妻の裸体を覗き見する高師直(月岡芳年画、出典:wikipedia)

 なお、史実では塩冶高貞は足利直義に謀反を疑われて桃井直常、山名時氏に追討されており、師直の出番はありません。師直の非道は『太平記』の創作なのです。

 では、美人妻への横恋慕がまったくでたらめかと言うと、師直に代わって家臣・薬師寺公義が詠んだ和歌が「ある人の代作」として歌集に収録されています。また、貴族の日記には吉田兼好が師直の使者を務めたとあり、兼好と関係があったことは確かです。

関白・二条兼基の娘を愛人に

 高師直の好色譚は塩冶高貞事件だけでなく、貴族の姫を何人も愛人としていました。

 「執事の宮めぐり」と噂される始末で、かなり高貴な姫にも手を出していたようで、関白・二条兼基の娘に子も産ませました。嫡男・高師夏です。この女性は天皇の後宮に入る予定だったのを師直が強引に奪ったとされています。師直の権勢の凄まじさを物語っています。

暴言「帝や院は木彫りでも金でも」

 高師直の傍若無人ぶりを象徴する乱暴な発言です。

師直:「王(天皇)だの院(上皇)だのは必要なら木彫りや金で作り、生身の王や院は流してしまえ」

 皇室の権威を真っ向から否定した暴言。これも『太平記』の逸話ですが、反師直派の僧・妙吉による足利直義への告げ口。妙吉はほかにも師直の言動を非難しています。

「恩賞の所領が少ないと言う武士に周辺の社寺領の押領を推奨した」

「所領を没収された武士に居すわっても知らないふりをすると言った」

 師直の増長ぶりを示すこれらの言動は、妙吉が「師直がこう言っている」というだけ。妙吉は足利直義と関係が深い高僧・夢窓疎石の兄弟弟子。多くの武士に尊敬されていましたが、なぜか師直、師泰兄弟だけは妙吉の前でも下馬もしないので不快に思っていたのです。密告内容が相当怪しいうえ、妙吉の告げ口自体が『太平記』の創作かもしれません。

行宮や有力社寺を焼き討ち

 高師直は暦応元年(1338)7月5日に石清水八幡宮を焼き払っています。

 石津の戦い(1338)の後、籠城を続ける敵を攻めあぐねてのことですが、多くの神宝が焼失しました。貞和4年(1348)には、四條畷の戦いの後、南朝の本拠地・吉野に攻め込み、仮の皇居である行宮や金峯山寺を焼き尽くしました。

 では、高師直が宗教的権威を一切認めない人物だったのかというと、実際には臨済宗を厚く信仰しています。五山十刹の一つ、真如寺(京都府京都市北区)を創建し、禅宗の経「首楞厳経」の注釈書「首楞厳義疏注経」を作らせています。

真如寺 南門(出典:wikipedia)
真如寺 南門(出典:wikipedia)

 また、自筆の和歌を高野山金剛三昧院(和歌山県高野町)に奉納し、勅撰の『風雅和歌集』にも入選。粗野な人物ではなく、有力武将にふさわしい教養や神仏に対する信仰心はあったのです。

気前良い尊氏と恩賞望む武士との板挟み

 高師直は武士からの恩賞申請、審議に関与しています。武士たちの過大な要求と、気前が良く、物惜しみしない足利尊氏との間で、実務を預かる師直は苦しい立場に立たされました。公正に評価しても、低評価の者からは逆恨みを買うこともあります。最終的には味方である武士たちからも不満や恨みを持つ者が出て、悪評形成に影響したようです。

観応の擾乱 副将軍・直義との対立

 高師直は権勢を誇りますが、足利尊氏の弟で室町幕府の政務面を取り仕切っていた足利直義との対立が激化、観応元年(1350)~文和元年(1352)、観応の擾乱が勃発します。室町幕府の内紛です。

クーデター 将軍・尊氏邸を包囲

 貞和5年(1349)閏6月、高師直は足利直義派による暗殺計画を察知し、自邸に引きこもりますが、執事を解任されます。先手を取られた師直ですが、高師泰が大軍を率いて上洛し、反撃態勢を整えます。武将たちは直義派、師直派に分かれ、それぞれの屋敷に集結。京は一触即発の状態となります。

 足利直義が尊氏邸に逃げ込むと、師直が包囲。今度は師直の意見が通り、直義が政務から手を引くことで決着します。幕府の政務は尊氏の嫡男・足利義詮が中心となり、義詮を支える師直の権勢はますます強化されました。直義は出家。直義派の中心メンバー、上杉重能、畠山直宗は配流先で師直の手下に暗殺されました。

打出浜の敗戦で暗転

 ここまでは高師直の完全勝利。孤立した足利直義は南朝と和睦して反撃に出ます。尊氏、直義兄弟が争う観応の擾乱が本格的に始まりました。

 観応2年(1351)2月、打出浜(兵庫県芦屋市)の戦いでは、師直に反感を持つ武将が直義に味方し、尊氏、師直は思わぬ敗戦を招きました。突出した師直の権勢は大勢の武将たちに嫌悪されるまでになっていたのです。

 今度は師直が出家。師直、師泰兄弟は京への移動中、摂津・武庫川(兵庫県伊丹市)で上杉能憲(よしのり)らに暗殺されます。能憲は師直に葬られた上杉重能の養子で、復讐の機会をうかがっていたのです。師直の嫡男・高師夏も捕らえられて斬られました。

「騎馬武者像」は師直か

 長く「伝足利尊氏像」として教科書にも載っていた「騎馬武者像」。兜もなく、抜き身の太刀を担ぎ、背負う矢は1本折れています。眼光鋭く、ふてぶてしい顔つきは『梅松論』に書かれた敗走場面を想像させ、足利氏ゆかりの家に伝わっていたことから尊氏像とされてきました。

 しかし絵の上部には、尊氏の子で室町幕府2代将軍である足利義詮の花押があります。父の肖像の上にサインを入れるのは当時の感覚では非常識。描かれた家紋、武具から高一族の者とするのが最近の定説です。家臣の奮闘を讃えて義詮が花押を入れたと解釈できます。

 義詮の花押が延文4年(1359)ごろのものとみられ、文和2年(1353)に戦死した高師詮とする説もあります。師詮は高師直の子ですが、戦死したときはかなり若く、初陣だった可能性もあります。「騎馬武者像」はそれほどの若者には見えません。

 また、落ち武者姿ながら堂々とした風格で、高師直の肖像とする説も有力。師直の姿にしては若すぎるようですが、あえて壮年期の姿で描かせたと推察することもできます。

おわりに

 歌舞伎「忠臣蔵」では、悪役・吉良上野介が高師直に置き換えられています。師直の名はそのまま悪役の代名詞だったのです。

 しかし、悪逆非道のエピソードは『太平記』以外、根拠が薄く、作られたイメージでしかありません。敵が多かったのがその一因ですが、師直は室町幕府創設に大きな役割を果たしています。特に「執事施行状」の発給は、強制力を伴って恩賞を保証し、武士の地位向上、政治の安定に貢献しました。師直は軍事、政治に手腕を発揮した有能な武将だったのです。


【主な参考文献】
  • 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)
  • 亀田俊和『高師直 室町新秩序の創造者』(吉川弘文館、2015年)
  • 亀田俊和『観応の擾乱』(中央公論新社、2017年)
  • 亀田俊和、杉山一弥編『南北朝武将列伝 北朝編』(戎光祥出版、2021年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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