「小野妹子」華道池坊の開祖だった!?遣隋使小野妹子の人物像を読み解く

小野妹子(おののいもこ)と言えば、遣隋使として隋に渡った飛鳥時代の官人として有名な人物の一人です。

歴史の教科書でもほとんどの人がその名前を目にしたことがあると思います。しかし、その半生は全く記録に残されておらず、生没年不詳の謎多き人でもあります。遣隋使として国書を携えて海を渡り、隋の皇帝煬帝を怒らせたエピソードはあまりに有名ですが、それ以外あまり知られていないのも事実です。

妹子について記された数少ない文献を紐解いていきながら、彼が何を成し遂げ、歴史に名を刻んだのか、詳しく見ていきたいと思います。

歴史の表舞台に突如現れた謎の人物「小野妹子」

小野妹子はいつ生まれて没したのか記録に残っておらず、詳細が分かっていません。推古天皇の時代、『日本書紀』に遣隋使として海を渡ったという記述から、突如として歴史の表舞台に登場する人物です。推古天皇を支える摂政を務めた聖徳太子とも密接なつながりがありました。

小野妹子は近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市小野)を治めていた豪族「小野氏」出身だと言われています。小野氏一族は、孝昭天皇の皇子「天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)」を氏祖とし、その名は『日本書紀』や『古事記』にも記され、大和朝廷に仕えていた由緒ある一族の一つであることが分かっています。

小野氏一族が治めていた小野村は琵琶湖が近く、優れた海運や軍事技術を持っていたため、当時命がけだった遣隋使に小野妹子が抜擢された要因になっていると考えられます。

遣隋使として隋へ渡り、隋からの使者「裴世清」とともに来日

推古天皇15年(607)に大礼小野臣妹子は渡来人の子孫で鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳として同道させ、遣隋使として派遣されます。その時に隋国の皇帝・煬帝(ようだい)に奉呈された国書についての内容と、それを受け取った時の煬帝の様子が隋書に記されています。

大業3年、其の王多利思比孤(たりしひこ)、使を遣して朝貢す…(中略)其の国書に日く「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」と。帝之を覧て(みて)悦ばず、鴻臚卿(こうろけい)に謂ひて日く「蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ」
『隋書東夷伝倭人条(ずいしょとういでんわじんのじょう』

当時大国であった隋の皇帝である自分こそがこの世界唯一の「天子」であるという考えであったため、小さな島国でしかなかった倭国の王が同じく「天子」という言葉を用い、対等外交を要求してきたことに立腹したというエピソードが伝わっています。腹を立てた煬帝は鴻臚卿に対し、失礼な国書は今後二度と自分の目には触れさせるなと命じたとのことです。

ひどく立腹した煬帝ではありましたが、翌年の推古天皇16年(608)には、隋の使者として裴世清(はい せいせい)以下、12人を遣わします。

立腹したのであれば、外交は失敗として小野妹子は追い返されても仕方がない状況だったと推測できます。しかし当時の隋は高句麗と敵対しており、倭国と不仲になることを避けたかったという事情がありました。

なので大和政権は隋を取り巻く国際情勢を読み、痛いところを突いて巧みに対等外交を成功させた、ということでしょう。そういう点からみても、裴世清以下12人の客人を伴って帰国した小野妹子の功績は倭国にとって非常に大きいものだったといえます。 

国書を奪われたのに大出世

推古天皇16年(608)4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国した小野妹子でしたが、『日本書紀』によれば、隋の皇帝煬帝からの返書を経由地の百済において紛失したと報告しています。

一国の国書を盗まれるという前代未聞の事件に対する罪は流刑に相当するものだったと言われています。裴世清の歓迎セレモニーが開催されている最中、小野妹子の進退について話し合いが行われており、流罪にするという処分が下されました。ところが推古天皇によって恩赦され、罪に問われることはなく、同年9月には裴世清の帰国にともない、再び遣隋使として隋に派遣されることになったのです。

推古天皇の考えとしては、妹子を罰することで、国書を盗まれたことが裴世清にばれてしまうことを避けたい考えがありました。裴世清を通して隋国までその失態が知れ渡ると、今後の国交にも重大な影響を与えてしまうため、恩赦という形で、小野妹子の罪を許したというものですが、これはとても冷静な判断だったと考えられます。

一方、隋の正史である隋書東夷伝倭人上によれば、隋から国書を小野妹子に預けたという記録がないことから、最初から妹子は国書を預かっていなかったとする説や、または国書の内容があまりにも酷いものだったために、帰国の際に途中で奪われたことにして、その罪を妹子が被ったとする説などがあります。

重大な罪を犯しておきながらも、実際には推古天皇の恩赦により罪が赦されたことや、冠位十二階の最高位の大徳(だいとく)にまで出世した史実を考えると、裴世清をともなって帰国したことに対する功績が高く評価されたことや、外交上の思惑など、さまざまな事情があったのかもしれません。

現代まで続く華道の家元池坊の開祖

小野妹子は大和政権内で、冠位十二階最高位として大徳の地位まで昇りつめ、推古天皇を助けて政治を執っていた聖徳太子とも深い繋がりがありました。太子が四天王寺建立のための資材を求めて京都に赴いた際も、同道したと伝わっています。

京都で霊木を手に入れた太子は、その地に六角堂を建立し、如意輪観音を本尊として寺を守るように妹子に命じます。妹子は六角堂最初の住職として、境内に池の近くに住居を構え、朝夕仏前にお花を備えていたそうです。これが現代まで続く華道池坊の始まりとされています。

池坊の家元に伝わる伝承によれば、大阪府南河内郡太子町の科長神社南側の小高い丘の上にある小さな塚が小野妹子の墓とされています。こちらでは華道池坊の開祖として小野妹子を祀っており、現在に至るまで代々、池坊によって管理されています。

大阪府南河内郡太子町にある小野妹子の墓
大阪府南河内郡太子町にある小野妹子の墓

一方で、墓所に関しては別の説もあります。

小野妹子の生誕地とされる、近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市小野)にある唐臼山古墳(からうすやまこふん)こそが、小野妹子の墓であると地元では伝えられ、墳丘上に小野妹子神社も建立されています。

境内からは琵琶湖を一望でき、外交の先駆者として高い御神徳があるということで、現在でも外交官や海外駐在員の参拝が後を絶たないそうです。

おわりに

記録が少ない飛鳥時代の官人小野妹子の人物像についてお伝えしてきましたが、いかがでしたでしょうか。

当時、東の蛮夷国として見下されていた日本が、大国である隋と対等の交流を果たすことができた功績は、国内外にその外交能力の高さを示したという意味で、大きな役割を果たした人物と言えるでしょう。

国書を奪われるという失態を犯しながらも、当時の最高位大徳にまで昇りつめたのは、彼の果たした役割が国内でも高い評価を得ていた証ではないでしょうか。

晩年、聖徳太子からの命で、初代住職として六角堂をまもり、花を供えた習慣から、現代まで伝わる華道の池坊の開祖にまでなったという意外な一面ものぞかせてくれます。優れた外交手腕と仏前に日々花を供える心の優しさを持ったとても魅力的な人物と言えそうです。


【主な参考文献】
  • 『日本書紀』(岩波書店)
  • 『読める年表 日本史 改訂第11版』(自由国民社、2012年)
  • 『日本歴史館』(小学館、1993年)
  • 上田正昭『日本古代史辞典』(大和書房、2006年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
天海りょう さん
レイキヒーラー、気功師師範代、タロット占い師、WEBライターとして活動中。依存させないタロット占い師を育成しながら、タロット占いに関するメディアの監修にも従事。大学では日本中世史専攻。中世の情報伝達手段について研究。宮中祭祀を現代に伝える白川学館にて上代和語・言霊・古神道の研究しており、電子書籍執筆 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。