鎌倉幕府創設の立役者にして、真の最高権力者!「北条氏」の家紋とは

「北条氏」の家紋イラスト
「北条氏」の家紋イラスト
 日本史上、武士による初めての政府が「幕府」であり、その創始者が源氏の棟梁であった源頼朝であることは周知のとおりです。しかし鎌倉幕府の時代を通して見てみると、その統治者が源氏であったのは三代までであり、その後は藤原氏や皇族の出身者が征夷大将軍に就任していました。

 そして幕府の実権を握って実務上の政権運営を行っていたのが、「北条氏」です。「執権」という元来は鎌倉殿の補佐官としての役割を担ってきた一族ですが、将軍権威が形式的なものとなるに従って北条氏は事実上の幕府最高職を担っていきました。

 なお、小田原を本拠とした戦国大名の北条氏(後北条氏)とは正確には異なる氏族であり、これを鎌倉北条氏あるいは執権北条氏という呼び方もしています。

 本記事ではこの執権北条氏の出自と系統を概観し、彼らがどのような家紋を使っていたのか、探ってみることにしましょう。(※以下、本記事では断りのない限り執権北条氏を単に「北条氏」と呼称します)

「北条氏」の出自とは

 北条氏はその源流をたどると、実は桓武平氏を祖としています。代々伊豆の在庁官人だったとされており、後に鎌倉幕府初代執権となる北条時政の父・時方の時代に伊豆介(いずのすけ)として伊豆北条(現在の静岡県伊豆の国市韮山あたり)に居住したことが氏族名の由来です。

 北条氏が歴史の表舞台に登場するのは治承4年(1180)の源頼朝挙兵の頃からで、時政の娘・政子が頼朝の妻となっていたこともあり、その打倒平氏の軍事行動に合力して武功をあげたことがきっかけとなっています。

 建久9年(1199)に頼朝が死去すると、時政は将軍の外祖父として権力を掌握。二代将軍・頼家を廃して三代・実朝を擁立し、政務・財務を司る政所(まんどころ)の別当(べっとう:長官職)に就いて初代の執権となりました。

 幕府最高職としての「執権」という呼び名が定着したのは正確には二代・義時の時代のこととされ、北条氏嫡流は「得宗家(とくそうけ)」と呼ばれるようになります。以後、泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の九代にわたり、北条氏が鎌倉幕府を運営していくこととなりました。


北条氏の紋について

 北条氏が用いた紋には「三つ鱗」と呼ばれる、三角形を四つ配して全体で大きな三角となる図案がよく知られています。

 黒い三角を下に二つ、その上に一つ乗せると中心に白い逆三角ができるという意匠で、これを「北条鱗」という場合もあります。その名のとおり三角形は古来、鱗を形象化した図としても捉えられており、水神信仰などとの関連も指摘されています。

 北条氏の家紋としての三つ鱗の由来としては『太平記』に記載されており、北条時政が一族繁栄を祈願して江の島弁財天に二十一日間の参篭祈願を行った際に弁財天の化身から賜ったものとしています。

 その内容をやや詳しく述べると、参篭行満願の明け方に緋袴姿の女房が出現し、北条氏隆盛の予言と警告を残して大蛇に身を変え、海中に消えたとあります。その大蛇が残した三枚の鱗を持ち帰り、家紋にしたというのが北条鱗の起源譚となっています。

 蛇あるいは龍の神への信仰は古くからあり、それ自体は決して珍しい観念ではありません。しかし水上戦闘に長けたという平氏の流れや、北条氏が本拠とした伊豆という立地から想起されるある種の海民性などを思わせ、水に関わる守護神でもある龍蛇の紋は示唆的に感じられます。

 なお、戦国大名として知られる小田原の北条氏(後北条氏)も、同じく三つ鱗の家紋を用いています。後北条氏は元来「伊勢氏」であり、非常に遠い血縁はあるものの執権北条氏の名跡を継いだという体裁をとったと考えられています。その折に北条鱗の家紋も取り入れたと考えられており、両者はほぼ同じ紋を用いていることが知られています。

 ただし執権北条氏の三つ鱗がほぼ正三角形状にデザインされているのに対し、後北条氏のそれは上下に少し押しつぶしたようなやや平坦な配置とする場合もあります。

家紋「三つ鱗」
家紋「三つ鱗」
家紋「北条鱗」
家紋「北条鱗」

北条氏出身の歴史上の有名人

 2022年度大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではまさしく北条氏が主役ですが、初代執権となる時政、頼朝の妻・政子、そして後に二代執権となる義時らが中心的な役割を果たしています。いずれも鎌倉幕府創設に貢献した功労者であり、執権北条氏繁栄の礎を築いた人物たちといえるでしょう。


 また、2001年度大河ドラマ『北条時宗』の主人公である八代執権・時宗も、よく知られた北条氏の人物ではないでしょうか。時宗は特に当時の元(モンゴル帝国)による二度の侵攻、いわゆる「元寇」への対策と防衛を主導した為政者としても有名です。

おわりに

 鎌倉幕府という史上初の武士による政府運営を担ってきた北条氏。それは将軍自身ではなく、補佐官としての立場であった執権が事実上の最高権力を掌握するという特徴的な政治機構を生み出しました。

 北条氏の約130年に及ぶ得宗家としての歴史は、壮絶な内部抗争を含む厳しい道のりだったといえます。鎌倉時代という区分を考えるとき、「北条氏による統治」は避けて通ることのできないキーワードであるといえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 監修:小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』(KKベストセラーズ、2014年)
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書』(ジャパンナレッジ版)(小学館)

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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