「北条時房」兄義時と甥泰時を支えた頼れるパートナーで鎌倉幕府初代連署
- 2022/07/20
北条時房(ほうじょう ときふさ)は北条義時・政子の異母弟で、鎌倉幕府初代連署を務めた人物です。兄の義時よりも甥の泰時(義時の嫡男)と年が近く、義時・政子の死後にはふたり協力しあう良きパートナーとしてともに執権政治を行いました。
北条義時や政子の年の離れた異母弟
北条時房は北条時政の子で、義時や政子の弟です。安元元(1175)年に生まれた彼は上の兄弟たちとは10歳以上年が離れていて、母も違ったようです。「時連」から「時房」への改名の逸話
文治5(1189)年4月18日に元服した時房は三浦義連(よしつら)を加冠役(烏帽子親)として、「五郎時連」と名乗りました。しかし、建仁2(1202)年に「時房」に改名しています。その理由は、酔っぱらった鼓判官平知康に「連の字が下劣だから改名しろ」と名前を馬鹿にされたからでした。『吾妻鏡』建仁2(1202)年6月26日条を見てみましょう。
「酒宴皆酣。知康進御前。取銚子勸酒於北條五郎時連。此間。酒狂之餘。知康云。北條五郎者。云容儀。云進退。可謂抜群處。實名太下劣也。時連之連字者。貫銭貨儀歟。貫之依爲哥仙。訪其芳躅歟。旁不可然。早可改名之由。將軍直可被仰之云々。全可改連字之旨。北條被諾申之」
蹴鞠の会が開かれ、その後に酒宴になると、酔っぱらった知康は時連に酒を勧めながら次のように失礼なことを言いました。「北条五郎は容貌も立ち居振る舞いも素晴らしいのに、名前は下劣です。“時連”の“連”の字はわらのさしで銭を貫いた連銭の“つるべ”のことか。それとも六歌仙の紀貫之にあやかっているのでしょうか。早く改名したほうがよろしいでしょう」と。
銭を貫く「連」は下劣であるし、かといって貫之にあやかるのもふさわしくない、とでも言うように人の名についてあれこれあげつらう知康こそ下劣に思えますが、時連は「じゃあ連の字は改名しましょう」と承諾して「時房」に改名することになったのでした。この出来事には姉の政子も「木曾義仲が後白河院の法住寺殿を襲撃したのも元はと言えば鼓判官のせいだし、義経に近づいて頼朝様に解官追放するよう院に奏上したのだ。それなのに頼家は亡き父の意思を忘れてあいつをそばに置くとは……」と、知康のみならず改名させた息子・頼家にまで怒りを向けたようです。
義時・政子と連携する時房
時房は兄たちと一回りほど年が離れていたため、源平の戦いで活躍することはありませんでしたが、元服の直後には奥州征伐に加わって戦いました。頼朝が亡くなると、蹴鞠が得意だった時房は第2代将軍・頼家の近臣となっています。時房は建保6(1218)年の姉・政子の上洛に随行し、後鳥羽院に召されて院の蹴鞠の会に参加したという話もあるので、それだけ才能があったことがうかがえます。
元久2(1205)年、畠山重忠の乱が起こりました。父・時政の命令により義時とともに重忠を討つため出陣したものの、「重忠に謀反の疑いがある」という時政の意見には当初義時ともども反対して「重忠が謀反を起こすなんてありえない」と説得しました。重忠はわずかな軍勢で旅装のまま戦って無実を訴えたため、義時は父を責めました。
時政はこの事件や、実朝を廃して牧の方の娘婿・平賀朝雅を将軍にしようとした事件(牧氏の変)の失敗で失脚しました。時房は義時や政子と母を同じくせず、また牧の方とも特別近しくない人物で、どちらにでもつけたはずですが、義時・政子と協力する道を選び、執権となった義時を支えていきます。
建暦3(1213)年5月に起きた和田合戦で活躍した時房は、その論功行賞で上総国飯富庄を与えられました。幕府の初代侍所別当であった和田義盛は北条氏の最大のライバルでした。兄弟で協力しそれを討伐したことで、北条氏の幕府内での地盤はより強固なものになりました。
親王将軍下向の交渉役
建保7(1219)年正月、第3代将軍実朝が右大臣拝賀の儀式のため鶴岡八幡宮を参詣していた最中、兄・頼家の遺児・公暁(くぎょう/こうぎょう)に暗殺されるという事件が起こりました。実朝には後継者となる実子がいません。前年の建保6(1218)年に政子が上洛したのも、後鳥羽院の皇子を実朝の後継者にする交渉のためでした。実朝暗殺事件の後、政子や義時、大江広元らは相談して後鳥羽院に「六条宮(雅成)か冷泉宮(頼仁)のどちらかを親王将軍として鎌倉へ下向させてほしい」と奏上しました。前年の交渉で後鳥羽院は快諾したはずでしたが、この時になって後鳥羽院は「そのつもりだが、今はその時期ではない」ともったいぶり、院の愛妾・伊賀局に与えた荘園の「摂津国の長江・倉橋の二荘園の地頭の罷免」を求めてきたのです。
政子・義時・時房・広元らはどうするべきか相談を重ね、時房が軍勢を率いて上洛し、後鳥羽院の求めを拒否して再度親王将軍下向を要請する、という決断を下します。時房は先述のとおり蹴鞠の腕前で後鳥羽院に一目置かれていたため、なるべく好印象の人物に交渉を、との理由からの人選でしょう。
3月15日、時房は1000騎の軍勢で入洛して後鳥羽院との交渉に挑みましたが、後鳥羽院は武力で圧力をかけて怯むような相手ではありません。交渉は決裂し、次の将軍には頼朝の妹の曾孫にあたる三寅(頼経/九条道家の子)が選ばれました。
六波羅探題として
このように鎌倉幕府と朝廷の関係が険悪になり、承久3(1221)年5月に勃発したのが承久の乱です。幕府は北条義時を朝敵とした後鳥羽院と戦うことを選びました。幕府は、義時の嫡男・泰時、次男・朝時、そして弟の時房を大将軍として、総勢19万の軍勢を率いて京都へ攻め上り、後鳥羽院の軍に勝利しました。このとき幕府軍は東海道・東山道、北陸道の3ルートに分かれて進軍しました。時房は泰時とともに東海道を進んで戦い、幕府軍を破るとそのまま泰時とともに京に留まり、戦後処理を行いました。これが六波羅探題(泰時が北方、時房が南方)の始まりです。
六波羅といえばもともと平家の邸宅があった土地ですが、平家滅亡後は没官領となって頼朝に与えられ、幕府の京での拠点となっていました。以後、六波羅探題の北・南はどちらも北条一門から選出されることになります。北方のほうが家格が高く、南方は欠員が出ることがよくありました。
時房自身は論功行賞で伊勢守護に任ぜられて伊勢国16か所を与えられ、淡路国志筑荘地頭になりました。
甥・泰時のパートナー
貞応3(1224)年に義時が急死すると、それまで京に留まっていた泰時が鎌倉に戻って執権を継ぎ、時房も翌年泰時に呼び戻されて鎌倉へ帰ると、政子の没後に泰時が新設した連署になりました。連署とは執権を助けて政務を行う役職で、執権とともに発給文書に署判(署名)することからこう呼ばれます。両者を合わせて「両執権」と呼び並べられることもありますが、あくまでも執権の補佐的な存在でした。
以後、ちょっとした確執はあったものの、時房は泰時の良きパートナーであり続けました。『吾妻鏡』延応元(1239)年4月25日条に、こんなエピソードがあります。
泰時が病で意識を失うほど臥せっていた時、時房は宴会を開いて酒を飲んでいました。誰かが「泰時が病なのに」と咎めると、「私がこのように酒宴を開けるのも、泰時が生きているからだ。もし泰時が死ねば私も隠棲することになるから、これが最後の酒宴になるかもしれない」と語り、咎めた人を感涙させたとか。
このエピソードが示すように、時房と泰時は終生信頼し合い二人三脚で歩んだのでしょう。時房は翌延応2(1240)年正月24日に66歳で亡くなり、甥の泰時もその2年後に亡くなりました。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本人名大辞典』(講談社)
- 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
- 坂井孝一『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱-』(中央公論新社、2018年)
- 安田元久『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館、1961年)
- 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。
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