「一ノ谷の戦い(1184年)」源平ついに激突!優勢だったはずの平氏はなぜ敗れた?
- 2022/04/20
木曾義仲を倒し、京へ入った頼朝軍。彼らによる平氏追討戦の初戦となったのが一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)です。この戦いでは現在の兵庫県神戸市の広い範囲で、戦闘が行われました(そのため、この戦いは「生田森・一の谷合戦」とも呼ばれます)。
数で勝る平氏軍を相手に奮闘する頼朝軍の武士たち。戦線が膠着する中、義経の「鵯越の逆落とし」が決まって大逆転!およそこんなイメージで語られることの多い一ノ谷の戦いですが、実際はどのようなものだったのか、詳しく見ていきましょう。
数で勝る平氏軍を相手に奮闘する頼朝軍の武士たち。戦線が膠着する中、義経の「鵯越の逆落とし」が決まって大逆転!およそこんなイメージで語られることの多い一ノ谷の戦いですが、実際はどのようなものだったのか、詳しく見ていきましょう。
対平氏戦の再開
合戦までの経緯
寿永3(1184)年正月20日、範頼・義経率いる頼朝軍は、木曾義仲の討伐を終え、京を支配下におきました。数日の内に戦後処理も完了し、いよいよ平氏との戦いに臨むこととなります。義仲に追われ都落ちしていた平氏軍でしたが、源氏同士が争っている間に勢力の回復に成功。摂津国福原を拠点に、京都奪回を画策できるほど平氏は力を取り戻していました。
平氏は相変わらず安徳天皇と三種の神器を掌握していました。和平を結んでそれらを安全に取り返すか、あるいは追討を続けるか。朝廷内では今後の対平氏戦について会議が行われました。
天皇と三種の神器の不在は、政務遂行に様々な不都合を生じさせます。右大臣九条兼実(くじょうかねざね)をはじめ、多くの公卿の意見は和平寄りだったといいます。
一方、京までやってきた頼朝軍にも限界があります。対義仲戦を共にした武士の中には、元々平氏側だった者も多くいました。彼らは反義仲の立場から頼朝軍に協力しただけで、引き続き対平氏戦に協力してくれる保証はありません。
そのため、当初の頼朝軍は平氏との戦いに消極的だったと考えられています。上記の兼実らの意見も、頼朝軍の状況を踏まえての見解だったのでしょう。
しかし、頼朝軍の実情とは裏腹に、会議の結果は平氏追討で決定します。これは平氏に強い恨みを抱く後白河法皇の意向によるものです。
これまで幾度となく平氏にひどい目に逢わされてきた後白河は怒り心頭、平氏の徹底的な追討を望んでいたと考えられています。
追討使出撃
数万とも噂される平氏軍を相手に士気が上がらなかったのか、軍勢の出立は遅延します。翌月2月1日になり、追討使となった範頼・義経はようやく京を出立します。2人は出立後しばらくの間、進軍を控えて京周辺の武士たちを組織化に腐心します。4日、並んで摂津国に入った2人はここで軍を二手に分けます。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』では、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍2万余騎を率いたとされます。平氏軍にも十分対抗可能な数です。
しかし、九条兼実の日記『玉葉』によると、追討軍の数は「各々1~2千騎程度」とだったといいます。両軍合わせても2~3千騎程度で、数万の平氏軍には遠く及びません。
続けて兼実は「結果は目に見えている……」的な記述を残していることからも、上記の『吾妻鏡』の軍勢数は誇張であったと考えられます。頼朝軍と平氏軍の間には、実際は大きな兵力差があったようです。
前哨戦・三草山の戦い
平氏軍は福原を中心に強固な防衛陣地を築いていました。福原の東方・生田の森と西方・一ノ谷に逆茂木や堀を設置して、山陽道を遮断、頼朝軍を待ち構えていました。義経は範頼と別れたその日のうちに播磨国の三草山に到達。そこを守る平資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛け、これを撃破します(三草山の戦い)。
さらに敵の追撃を土井実平に任せた義経は、平氏軍の西側へ回り込むべく、軍勢を率いて山道を進撃。一方で大手軍を率いる範頼も、平氏軍を東側から攻撃するべく軍を進めていきます。まさに両軍の戦いの火蓋が切って落とされようとしていました。
戦闘の推移
戦闘開始
『平家物語』によれば、2月7日、熊谷直実・直家父子ら5騎の先駆けによって戦いがはじまったとされます。直実らは平忠度の守る塩屋口(福原の西方)に攻撃を仕掛け、後から追いついてきた土肥実平の軍勢も合わさり大激戦になったといいます。その後、範頼率いる大手軍も平氏軍への攻撃を開始。平氏軍の主力が守る生田口(福原の東方)でも、両軍の矢が降り注ぐ激戦が繰り広げられました。この戦闘では梶原景時父子が奮戦し、「梶原の二度懸け」と呼ばれる戦いぶりをみせたとされています。
また、上記と前後して、多田源氏の多田行綱が福原にほど近い夢野口(山の手)を攻撃。平氏軍の本拠に肉薄する活躍を見せました。
各所で激しい戦闘が繰り広げられる中、義経は僅かな手勢と共に福原の西方・一ノ谷の断崖絶壁の上に立って戦場を見渡していました。
義経の奇襲
崖上の義経は平氏軍への奇襲を決断。自ら先陣を切って崖を馬で駆け下りていきました。途中、一層険しい箇所に差し掛かると進軍は止まってしまいます。馬の扱いに長けた坂東武者ですら足が竦むほどだったのでしょうすると義経勢にいた佐原義連(さはらよしつら、三浦氏の一族)が一行の前に進み出ます。彼は「地元じゃこんな坂下りは日常茶飯事だ!」と言い放ち、真っ先に駆け下っていきました。これに勇気づけられた一行の進軍は再開。馬を励ましながら、続々と平氏の陣めがけて進んでいきます。
なお、皆が義連に続く中、自らの馬が損なわれることを嫌がった畠山重忠は自らの怪力を活かして馬を担ぎ上げ、そのまま徒歩で崖を下っていったといいます(この時、重忠は範頼軍にいたので、そもそもこの奇襲に参加していなかったとも)。
崖を馬で下るという義経の無茶振りに対し、様々な対応を見せる武士たちの様子は大変おもしろいですね。
大混乱に陥る平氏軍
義経軍の予想外の強襲に、平氏軍は大混乱に陥ります。逃げ惑う平氏軍の兵たちは脱出する軍船に殺到。しかし、乗り切れずに多くの者が溺死したといいます。各戦線でも頼朝軍は平氏軍を破り、平氏は一門や有力武将の多くが討死・捕虜となるほどの大損害を被りました。平氏政権の象徴ともいえる福原を失った平氏軍は讃岐国屋島を目指して落ち延びていきました。
当初こそ勝利が絶望視された対平氏戦の初戦に、頼朝軍は勝利してみせたのです。
実際はどうだったのか
上記で述べた戦闘の様子は『平家物語』やその異本『源平盛衰記』の記述によるもので、当時の史料にはそのほとんどが記載されていなかったりします。ここからは当時の史料や、最新の研究から「一ノ谷の戦い」の実像に迫ってみましょう。「鵯越の逆落とし」について
義経による奇襲は「鵯越の逆落とし」と呼ばれ、「天才軍略家・源義経」を代表する戦術として有名です。しかしながら、義経が攻撃した「一ノ谷」と、逆落としを敢行したとされる「鵯越」は、実は全く違う場所なのです。鵯越(神戸市兵庫区鵯越筋)と一ノ谷(神戸市須磨区一の谷町)は約8キロも離れています。そのため義経による逆落としの現実性や場所については、研究者の間でも長年議論が続いていました。
当時の鵯越と一ノ谷の場所比定が正しければ、鵯越の付近で軍事行動をしていたのは、義経ではなく先述の多田行綱です。義経が一ノ谷を攻略したことと、行綱が鵯越付近の山の手を攻略したことは、当時の史料からも明らかになっています。
そのため近年の研究では、鵯越付近で平氏軍を破った行綱と一ノ谷で奇襲を仕掛けた(この場合、一ノ谷の裏手にある鉄拐山から奇襲をかけた?)義経の活躍が混同され、義経側に集約されて後世に伝わったと考えられています。
源氏襲来は想定外だった?
戦闘後、頼朝軍の捕虜となった平重衡を通して、棟梁の宗盛に和平の呼びかけがありました。これに対する宗盛の返書の中で驚愕の事実が発覚します。返書で宗盛は、合戦前に後白河法皇から事実上の休戦・和平の命令があったこと、これを信じて待っていたところに源氏の攻撃があったことを訴えています。
つまり平氏軍は停戦の準備をしていたところに頼朝軍の不意打ちを受けたことになり、まさしく「話が違う!」状態だったのです。上記の返書は史料的な信頼性も高いとされ、平氏を激しく恨む後白河による、苛烈な作戦だったと考えられています。
九条兼実は、義経の使者から聞いた戦闘報告を『玉葉』に残しています。それによると戦闘は辰の刻(午前8時ごろ)から巳の刻(午前10時ごろ)の間であっという間に終結したというのです。
『平家物語』などでは激戦の様子が描かれますが、実際は予想外の源氏襲来に平氏軍は戦う間もなく総崩れになってしまったと考えられています。平氏追討は、戦場にある武士やそれ率いる源氏諸氏よりも、後白河をはじめとした朝廷サイドの方が本気だったのかもしれません。
【主な参考文献】
- 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究』講談社学術文庫、2010年
- ひょうご歴史ステーション 絵解き 源平合戦図屏風
- 元木泰雄『源義経』吉川弘文館、2007年
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