“海賊大名”と称される海の戦国武将!「九鬼嘉隆」の家紋とは?

「九鬼嘉隆」の家紋イラスト
「九鬼嘉隆」の家紋イラスト
 武芸を指して「弓馬の道」とも言うように、武士の活動は陸戦に主眼が置かれていたイメージがないでしょうか。しかし武芸十八般のうちには「泳法」を含める場合があり、古式のそれらの中には甲冑をまとったまま泳いだり太刀撃ちをしたりする技も伝わっています。

 このようなことからも実は水上戦や海戦も、武士にとっては重要なフィールドの一つだったことがわかります。そこで威力を発揮したのが、水軍などと呼ばれる船団戦のプロ集団です。近年では瀬戸内海の村上海賊が有名になりましたが、織田・豊臣の配下にも名を馳せた水軍大将がいました。その名は九鬼嘉隆(くき よしたか)。後に海賊大名とも異名される武人で、織豊期の重要な水上作戦の数々で中心的な役割を果たしました。

 今回はそんな海の戦国武将、九鬼嘉隆が使用した家紋についてのお話です。

九鬼嘉隆の出自とは

 九鬼嘉隆は天文11年(1542)、志摩国(現在の三重県南東部あたり)に生を受けました。

 田城城主・九鬼定隆から家督を継ぎ、当初は伊勢国司・北畠氏に仕えましたが織田信長が京都へと進出した頃にその配下になったとされています。

 安宅船(あたけぶね)と呼ばれる大型軍船を多数運用し、いわば艦隊司令として数々の水戦で織田軍に勝利をもたらしました。なかでも天正6年(1578)の石山本願寺攻撃に際しては、大砲を搭載した鉄板装甲の巨大艦を操り、精強で知られた毛利水軍の艦隊600艘余あまりを撃破するという武功をあげました。

 豊臣配下時代には文禄元年(1592)からの文禄の役では旗艦・日本丸を駆り、巨大軍船の有効性を秀吉からも高く評価されています。関ケ原の戦いでは西軍についた嘉隆でしたが、跡を継いだ子の守隆は東軍に与したため父子で敵対することになりました。

 武功をあげた守隆は父・嘉隆の助命嘆願をしてこれを許されますが、その報せが届く前に嘉隆は自害。慶長5年(1600)10月12日、数え年59歳でした。

九鬼嘉隆の紋について

 水軍大将として勇名を馳せた嘉隆が用いた家紋として、「三頭右巴(さんとうみぎどもえ)」が知られています。これは九鬼氏の定紋であり、勾玉のような模様を円形に三つ配した図案は陣太鼓などにも施されているのを見たことがあるのではないでしょうか。

家紋「三頭右巴」
家紋「三頭右巴」

 武家の崇敬を集めた八幡宮の神紋でもあり、元来は水が渦を巻く様子がモチーフになっているともいわれます。このことから水神や龍神への信仰を想起させ、水難除けや航海の安全、あるいは防火など「水」にまつわる願いが込められたエンブレムとも考えられています。

 こうしたことから海を舞台に活躍する九鬼氏には、まさしくうってつけの家紋であるといえそうですね。これを「トモエ」と呼ぶのは、弓を射る際に用いる「鞆(とも)」という道具に見立てたことが由来といいます。

 鞆とは弓を持つ左手首に装着する円形の防具で、矢を放ったときに弦が手首に当たらないよう守るものでした。中世までには実用品としては使用されなくなり、武官が儀礼に用いるのみとなったといいます。

守隆の代の紋

 ちなみに嘉隆の後継者であった九鬼守隆の代からは、定紋を三頭右巴から「七曜(しちよう)」へと変更しています。近世大名としての九鬼氏の家紋が七曜であると紹介されるのはそのためで、中心に1つ、周囲に6つの円を配した図案となっています。

家紋「七曜」
家紋「七曜」

 通常「七曜」というと「日・月・火・水・木・金・土」の天体になぞらえた一週間の配当を思い浮かべます。しかしこの家紋における七曜は同じ天体でも北斗七星のことを示しているとされ、これを和名で「七曜の星」と呼ぶこともあります。

 北斗七星は北極星を探す目印になったり、それを中心に回転するかのような見え方をしたりするため、方位を知る指標となりました。

 つまり船乗りにとっての羅針盤のような役割を果たしたといえ、水軍を率いる九鬼氏にとっても実に象徴的な図案だったといえるでしょう。また、北辰信仰とも相まって武神としての北斗七星や北極星などへの崇敬も考えられそうです。

おわりに

 戦国期を通じて圧倒的多数の合戦は陸上で行われたといえますが、水上あるいは海上での優位性を掌握するのは非常に重要なことでした。源平合戦の頃からすでに海戦のエピソードが見られ、強力な水軍を擁することが戦いの趨勢に影響を及ぼしてきました。

 ごく大まかにいうと、ひとつには輸送ルートの確保、そして敵方退路の遮断といった重要な役割を水軍は担ってきました。兵糧や陸戦隊の効率的な輸送には河川や海といった水上交通が欠かせず、また海に面した地域を攻略するため海上封鎖を行うこともセオリーの一つです。

 九鬼嘉隆はまさしくそうした特殊技能をもった船団を率いる海の武人であり、信長や秀吉のみならず多くの将が覇道のために欲した力の一つだったといえるでしょう。そんな意味でも嘉隆は「戦国の大提督」ともいえそうですね。



【主な参考文献】
  • 監修:小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)
  • 大野信長『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』(学研、2009年)
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』(KKベストセラーズ、2014年)
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版)(講談社)

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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