狩野派とは?戦国時代を彩った一大芸術家集団を概説!
- 2022/03/14
戦国時代の芸術はそれまでに類を見ないほど豪華です。特に建築物は、それまでも中尊寺金色堂や金閣があったものの、安土城や大坂城の規模や華やかさは別格でしょう。
巨大な建築に花を添えたのは、その襖や屏風を彩る絵画です。現在も二条城でその一端を知ることができますが、壁一面の黄金の襖に、鮮やかな絵の具で堂々と描かれた絵は、天下人らしい豪華さと堂々とした気風を伝えています。
その障壁画を描いていたのが、「狩野派」と呼ばれる絵師集団でした。名前は知らなくても、戦国好きの方でしたら、その作品を一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。よく知られている『唐獅子図屏風』をはじめ、戦国時代を代表する作品を残した彼らを、代表作とともにご紹介します。
巨大な建築に花を添えたのは、その襖や屏風を彩る絵画です。現在も二条城でその一端を知ることができますが、壁一面の黄金の襖に、鮮やかな絵の具で堂々と描かれた絵は、天下人らしい豪華さと堂々とした気風を伝えています。
その障壁画を描いていたのが、「狩野派」と呼ばれる絵師集団でした。名前は知らなくても、戦国好きの方でしたら、その作品を一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。よく知られている『唐獅子図屏風』をはじめ、戦国時代を代表する作品を残した彼らを、代表作とともにご紹介します。
そもそも絵師とは
絵師は、現代でいうと内装業者とイラストレーターのような職業です。彼らは絵画を得意とする職人集団で、依頼に応じて扇子の絵から障壁画まで様々な絵を作成しました。絵師一人が全て仕上げることは稀で、たいていは弟子たちと分業して作業をしていました。絵師の顧客は天皇や公家、大寺院、将軍など権力とカネがある人々です。依頼内容は自邸の装飾、小物の絵付け、また稀に絵巻物作成や復元、和歌集の下絵などもありました。
国は違いますが、イタリアルネサンスの芸術家たちも、パトロンのもとで弟子たちと作品を作ったり、壁画を描いたりしています。日本の絵師も彼らと似た存在形態のようです。
天下人がパトロン!狩野派の絵師たち
戦国時代、権力者からの大口依頼はもっぱら狩野派が受注しました。狩野派は主に京都に拠点を置く絵師集団で、トップは代々狩野一族がつとめました。水墨画から金屏風まで幅広く手掛ける作風は、権力者との関りの中で形成され、またそれゆえに権力者に愛されました。今回は中でも有名な画家たちを紹介します。
足利将軍がパトロン!狩野正信・狩野元信
狩野派の初代とされるのは、狩野正信(永享6(1434)年~享禄3(1530)年)です。彼は伊豆の出身といわれています。京都に出た正信は足利義政に見出され、室町幕府の御用絵師になりました。当時は東山文化の全盛期で、正信も宋の絵画を模した水墨画を中心に描いていました。正信の息子・元信(文明8(1477)年~永禄2(1559)年)も絵師の道に進みました。彼は宋の名画をもとにして独自の様式を見出し、中国の模倣から脱していきました。また、その様式を弟子たちにも伝え、高品質な絵画を組織的に大量生産できるようなシステムをつくりました。
また、彼の妻は、朝廷の絵を受注していた土佐光信の娘でした。この縁を通じて、絵巻物などに使う色鮮やかな絵を描く技法や、金屏風に描く技法などを受け継ぎました。
正信が幕府と縁を得、元信で華やかな絵画技法を得たことで、狩野派は一気に花開きます。
安土城や聚楽第を飾った!狩野永徳
狩野派で最も有名な画家は、狩野元信の孫・狩野永徳(天文12(1543)年~天正18(1590)年)でしょう。彼の代表作『唐獅子図屏風』、『洛中洛外図屏風』、『檜図屏風』は、戦国時代の芸術作品として必ず取り上げられるほどです。彼は子供の頃から絵が上手く、祖父・狩野元信が才能を見抜いて英才教育をしました。若い頃は『洛中洛外図屏風』のような細かい描写を得意とした画家でした。
それが織田信長と出会い、安土城の障壁画を受注したことで、画風が変わります。細かい画風から一転、『唐獅子図屏風』に見られるような豪放磊落、絢爛豪華な巨大な絵を描くようになりました。
信長との出会いは『洛中洛外図屏風』を介してのことでしょう。この屏風は信長から上杉謙信に贈った品ですが、最初は足利義輝が謙信に贈ろうと作っていたものでした。義輝の死後、屏風を見た信長は、そこで初めて永徳の存在を知ったのでしょう。信長が屏風を贈ったのは天正2(1574)年、2年後の天正4(1576)年に永徳は安土城の襖絵を受注し、安土に移住しています。
本能寺の変の後、永徳は引き続き豊臣秀吉に召し抱えられます。秀吉のもとで、彼は大坂城や聚楽第の障壁画、大徳寺や仙洞御所の障壁画も制作します。多くの作風を描き分け、弟子たちとともに高品質な襖絵を量産する彼は秀吉に重宝され、次から次へと依頼が舞い込みました。
永徳は多忙を極めました。納品を待ってくれるよう依頼主に嘆願した手紙も残っています。秀吉治世期には、弟子を多数抱えていても追いつかないほどの仕事が、永徳に襲い掛かっていました。その過労がたたり、永徳は仕事中に倒れ、そのまま亡くなりました。47歳の若さでした。
上方を中心に障壁画制作を継続!狩野山楽
突然倒れた狩野永徳は、東福寺の天井画を制作中でした。彼の仕事を引き継いだのは、養子の狩野山楽(永禄2(1559)年~寛永12(1635)年)です。山楽はもともと浅井氏の家臣で、木村光頼と言いました。15歳の時、浅井氏が滅亡し、彼は豊臣秀吉の小姓として引き取られました。絵の才能があったので、秀吉の斡旋で永徳門下に入って技術を磨き、永徳に認められ養子になりました。
山楽は永徳没後、彼の弟子をまとめて、引き続き豊臣家からの注文に答えました。関ヶ原の戦いで徳川の世になっても、山楽の豊臣家贔屓は続きます。とうとう大坂の陣で豊臣家が滅亡する時まで大坂にとどまり、江戸幕府から嫌疑をかけられ九条家が間に入る騒ぎに。彼の門下生は「京狩野派」と呼ばれました。
江戸城・二条城を飾った!狩野探幽
狩野山楽が豊臣家の依頼を受ける一方で、永徳の孫・狩野探幽(慶長7(1602)年~延宝2(1674)年)は江戸幕府の障壁画を担当しました。江戸を拠点に活動したため、彼の門下生は「江戸狩野派」と呼ばれました。探幽は永徳の次男と佐々成政の娘の間に生まれ、10代から絵の才能を発揮し、15歳で江戸幕府御用絵師となり、京都から江戸鍛治屋橋に引っ越しました。21歳で再建した大坂城の障壁画を、24歳のとき二条城二の丸御殿の障壁画を担当し、32歳で名古屋城の障壁画を仕上げるなど、精力的に活動します。
豪壮な障壁画のみならず、『東照宮縁起絵巻』など繊細で華やかな描写の作品も、依頼に応じて描いています。54歳の時に大火事の被害に遭ってからは、焼失した手本や資料を取り返すべく、積極的に古い絵画の模写や写生を行い、更に腕をあげました。
また探幽は絵画の鑑定士としても有名でした。彼は鑑定依頼があった作品を模写しており、そのノートが現在まで残っています。中には原本が残っていない作品の模写もあり、貴重な資料となっています。
おわりに
ある時は将軍家、ある時は天下人、ある時は寺院の要請で絵画を作った職人集団・狩野派。華やかな作品を手掛けた一団として有名ですが、それは彼らのセンスに加えて時代の要請があったから実現したものでした。確かに狩野永徳らは天才かもしれませんが、もし彼が別の時代に生まれていたら、ここまで華やかな作品は描かなかったでしょう。天才絵師の腕と戦国時代の気風、そのどちらが欠けても彼らが手掛けた絢爛豪華な芸術は成立し得ないものでした。
【主な参考文献】
- 五味文彦監修『戦国大名の遺宝』(山川出版社、2015年)
- 安村敏信『狩野派 探幽と江戸狩野派』(東京美術、2006年)
- 成澤勝嗣『狩野永徳と京狩野』(東京美術、2012年)
- 国立文化財機構所蔵品統合検索システムColBase
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