「源範頼」平氏追討軍の大将軍をつとめた源頼朝の異母弟。義経と同じく兄に殺される

頼朝の異母弟として源義経と同じように源平の戦いで活躍しているのに、いまひとつ知名度で劣る源範頼(みなもとの のりより)。義経が頼朝とすれ違い、対立の末に討たれてしまったという悲劇は有名ですが、やはり同じように頼朝によって殺された範頼の最期はあまり知られていません。

悲劇のヒーロー・義経があまりに有名すぎるせいか、範頼はその陰に追いやられている印象があります。ここでは、そんな範頼がどんなふうに活躍したのかをお伝えしていきます。

源頼朝の異母弟・範頼

源範頼は、源義朝(よしとも)の六男として生まれました。異母兄には頼朝が、異母弟には義経や阿野全成がいます。母は遠江国池田宿の遊女で、範頼は同国の蒲御厨(かばのみくりや/現在の静岡県浜松市にあった伊勢神宮内宮領)で生まれ育ったことから、「蒲冠者」とも呼ばれます。

いつ、どのようなつながりからかはわかりませんが、幼いころに後白河院近臣の藤原範季に引き取られて養育されたようです。範頼の名はこの養父から一字をもらったのでしょう。


弟・義経とともに数々の戦で活躍

範頼の活躍が史料に登場するのは『吾妻鏡』の治承5(1181)年閏2月23日条から(実際は寿永2(1183)年2月の出来事。この時は志田義広追討のため下野国に出陣)で、それ以前の動きは不明ですが、異母弟の義経や全成と同じように、兄・頼朝が挙兵した治承4(1180)年の秋ごろには兄のもとに馳せ参じていたのではないでしょうか。

木曾義仲を討つ

寿永2(1183)年の末、範頼は義経とともに、頼朝の代官として京都の木曾義仲追討のために出陣しました。

戦いの直前の木曾義仲軍はわずか1000余騎程度で、すでに多くの武士たちが離脱していたようです。義仲が叔父・源行家を討つために腹心の樋口兼光を河内国へやっていたこともあり、余計少なかったものと思われます。これに対して、頼朝が遣わした範頼・義経軍は、『平家物語』によれば範頼軍が3万5000余騎、義経軍が2万5000余騎であったとか。両軍の兵力差は一目瞭然です。

年が明けて、寿永3(1184)年正月20日、宇治川で戦いが始まりました。搦手の義経軍がまず宇治川の防衛線を突破して義仲軍を敗走させ、大手の範頼軍はそれに少し遅れて入京しました。敗走する義仲は逃亡する途中で追い詰められ、討たれています。

一ノ谷の戦い

同月中、朝廷は26日と29日にあわただしく平宗盛討伐宣旨、義仲残党討伐命令を下しました。これを受け、頼朝の代官として大将軍をつとめる範頼は、義経とともに京を出て平家の拠点・摂津国福原(現在の兵庫県神戸市)をめざしました。なお、このころ範頼は墨俣合戦で御家人と先陣を争って乱闘騒ぎを起こしたため、頼朝に勘当を受けていたとされています。

範頼・義経軍は2月5日に摂津国へ入りました。大手の範頼軍は5万6000余騎、搦手の義経軍は2万余騎という大軍でした。源氏方の作戦は、大手の範頼軍が福原の東側から、搦手の義経軍が福原の西側から攻めるという東西挟み撃ちの戦術でした。一ノ谷の戦いの前哨戦である三草山合戦で、範頼は生田の森を攻撃。義経軍は奇襲をかけ、平家軍を混乱させてあっという間に勝利しました。

その後、範頼は義経を京都に残して鎌倉に帰還すると、6月には頼朝の推挙により三河守に任ぜられています。

平家を滅亡させる

同年8月8日、範頼は頼朝に勘当を解かれ、平氏追討のため九州へ向け、北条義時、三浦義澄らを従えて出陣しました。頼朝が九州により近い場所にいる義経ではなく関東にいた範頼に任せたのは、この時義経が伊賀・伊勢方面の対応に追われていたためでした。

九州に渡って平家軍を攻撃するためには、西国の武士たちを多く味方につける必要がありました。特に重要なのは水軍です。しかし、それは思うように進みませんでした。軍勢を安芸国(現在の広島県西部)まで進めていた範頼は、11月中に兵糧の不足を訴えています。平行盛に兵站線を絶たれたため、兵糧が欠乏したのです。この兵糧不足にはとにかく悩まされ、軍の半数以上が引き上げようとしたとか。平行盛には煩わされましたが、佐々木盛綱の活躍で藤戸合戦に勝利し、行盛軍を屋島に敗走させました。

元暦2(1185)年正月、範頼には屋島の平家軍追討が命じられました。平知盛軍に阻まれた範頼軍はなかなか思うように進軍できませんでしたが、各地から兵船や兵糧米が献上されると、26日にようやく周防国(現在の山口県東部)から豊後国(現在の大分県南部)に入り、九州入りを果たしました。

2月、長く後白河院に引き留められていた義経は、ようやく院の許しを得て出陣し、破竹の勢いで平家軍に勝利しました(屋島の戦い)。

一見、西国でじりじりと一歩進んではまた後退する、という様子の範頼に対して、義経の活躍が際立って見えます。頼朝も範頼を能力不足と判断して義経を向かわせたのだと考えられがちですが、この時の義経の動きは後白河院の指揮下で進められたもので、頼朝の命によるものではありませんでした。

範頼は頼朝の命令に忠実に、西国で兵糧が不足するなか粘りに粘って九州入りし、平知盛軍の拠点彦島(現在の山口県下関市)を孤立させ、結果義経の屋島の奇襲は成功したのです。

義経の活躍ほど目立つものではありませんが、範頼のはたらきも評価に値するものです。それぞれ与えられた役割が違うがゆえに範頼の評価が著しく低いのは残念なことです。範頼の評価の低さは、『平家物語』の判官びいきも大いに関係しているでしょう。

翌3月24日の壇ノ浦の戦いが源平最後の戦いとなりました。義経軍が平家軍を破り、ついに平家を滅亡させたのです。長かった戦いが終結した後、範頼はしばらく九州に残り、戦後処理を行い、九州経営を担当しました。

頼朝に忠実に仕えるも、疑われて殺される

範頼は、義経が頼朝と対立を深めた末にどのような最期を迎えたか、よく見ていたはずです。肉親であっても容赦なく切り捨てるのが頼朝のやり方であると、自分の胸に深く刻んで行動したはずです。しかし、建久4(1193)年、範頼はある言葉から疑いをかけられ、伊豆に配流されて殺されました。

この年の5月、頼朝が主催した富士の巻狩りで、御家人の工藤祐経が曾我兄弟の祐成(すけなり)と時致(ときむね)に殺されるという事件が起こりました。曾我兄弟は祐経に父・河津祐泰(すけやす)を殺され、その仇討を果たしたのです。

歴史書『保暦間記(ほうりゃくかんき)』は範頼が疑われた理由を、曾我兄弟の事件の後頼朝から連絡もなくうろたえる政子に、範頼が「自分がいれば源氏は安泰だ」と述べたことにあるとしています。

『吾妻鏡』の建久4(1193)年8月2日条には、範頼が頼朝に起請文を提出し、頼朝に叛く気持ちは全くないのだと言葉を尽くして訴えましたが、頼朝は範頼が「源範頼」と名乗っていることに怒り、「源氏を名乗るのは過分なことだ」と言いました。これは範頼も思いもよらないことで、狼狽したようです。

同月10日、頼朝は範頼に仕える当麻太郎が寝所の下に臥せていることに気づきました。尋問すると「範頼の起請文について一向に沙汰がないので、悩む範頼のために沙汰を尋ねたくてやってきたのです。陰謀を企てているのではありません」と答えました。しかしこの当麻太郎の行動について範頼は何も知らなかったと答えたため、頼朝の範頼に対する疑いは深まってしまいました。

結局範頼は許されず、同月17日に伊豆国修禅寺に幽閉されました。その後についてははっきりとはわかりませんが、誅殺されたと考えられています。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 下出積與『木曽義仲 (読みなおす日本史)』(吉川弘文館、2016年)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 五味文彦編『別冊歴史読本01 源氏対平氏 義経・清盛の攻防を描く』(新人物往来社、2004年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集45 平家物語(1)』(小学館、1994年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集46 平家物語(2)』(小学館、1994年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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