「以仁王」 打倒平家に命をかけた悲運の王! 源氏に決起を呼びかけた令旨は新たな時代をつくった?
- 2022/01/17
平家が専横を極める時代、国家や朝廷を救うため、命懸けで挙兵を呼びかけた人物がいます。後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)です。
以仁王は非凡な才を持ちながら、平家一門に阻害されて皇位継承から外れ、不遇の前半生を送っていました。平家が院政を停止し、後白河院を幽閉に及ぶと以仁王は激怒。全国の源氏に令旨を送って挙兵を呼びかけます。源平合戦の幕開けにより、全国は戦乱の時代に突入。しかし当事者である以仁王には、意外な結末が待ち受けていました。
以仁王は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。以仁王の生涯を見ていきましょう。
後白河天皇の血を引く王
後白河天皇の第三皇子として生まれる
仁平元(1151)年、以仁王は山城国で、後白河天皇の第三皇子として生を受けました。生母は権大納言・藤原季成の娘・藤原成子です。三条高倉に住んだため、三条宮あるいは高倉宮と称されました。同母姉には、歌人として名を馳せた式子内親王がいます。
以仁王は幼少から英明で知られていました。学問や詩歌に優れ、書や笛に非凡な才能を発揮していたと伝わります。次兄・守覚法親王がいましたが、仏門に帰依したため、以仁王は第二皇子とされていました。幼少の以仁王も天台座主・最雲法親王のもとで出家。仏門において修行を開始しています。
当時、皇位を継承する者以外の男子のほとんどは出家して僧籍に入るのが通例でした。出家後の皇族は「宮」と称され、皇族内部の存在として認識されていたようです。
以仁王も将来は守覚法親王と同じく、天台座主かどこかの門跡(皇族や公家の住職)となることが想定されていました。しかし応保2(1162)年、最雲法親王が死去。このため以仁王は出家を取り止め、還俗することとなります。
平家に皇位継承を阻まれる
永万元(1165)年、近衛河原の大宮御所(女院御所)で元服。のちに八条院暲子内親王の猶子(財産相続権のない養子。名跡は継承できる)となります。
親王宣下こそ受けていませんが、以仁王も皇位継承の候補者の一人として周囲から認識されていました。母・成子の出身・閑院流藤原氏は、藤原北家の流れを汲む一族です。代々天皇の外戚として権勢をふるい、鳥羽天皇や後白河天皇の生母も輩出したほどの家柄でした。
しかし当時は、平清盛率いる平家一門が政治の実権を握っていた時代です。清盛の正室・時子の妹・平滋子(建春門院)は、入内して後白河天皇の女御の地位にあり、憲仁親王(のちの高倉天皇)の生母でもありました。
平家や滋子は憲仁親王の即位を希望。当然ながら滋子らは以仁王の皇位継承を妨害し、皇位継承を阻止します。決定的な出来事は、以仁王の支持基盤への攻撃でした。
永万2(1166)年、母方の伯父・藤原公光が権中納言及び左衛門督などの官職を解官。政治の世界から失脚してしまいます。平滋子の恨みを買った末の措置だとされました。
この段階で以仁王は親王宣下さえ受けていません。院政期に親王宣下を受けるのは、正妃(皇后・中宮・女御)所生の皇子、あるいは仏門に入った皇子とされていました。以仁王の生母・成子は女御でないため、以仁王には親王宣下を受けることができません。
この時点で以仁王の皇位継承の可能性は消滅。仁安3(1168)年には、憲仁親王が高倉天皇として即位しました。
全国の源氏に平家打倒の令旨を送る
平家に所領を没収される
平家の横暴は、止まるところを知りませんでした。治承3(1179)年、後白河上皇と平清盛の間に摂関家領の帰属を巡る問題で対立が生じます。
平清盛は数千騎に及ぶ軍勢を率いて入京。関白・藤原基房の配流を決定し、院近臣の大規模な解官を行います。クーデターの結果、後白河上皇は幽閉。院政は停止され、平清盛が政治権力を一手に握ることとなりました。
政変によって、平家一門は知行国交替を断行します。平家の知行国は17カ国から32カ国にまで増大。『平家物語』によれば、日本の半国に及ぶほどだったとされます。
このとき、以仁王は長年にわたって知行してきた城興寺領を平家によって没収されてしまいました。度重なる平家の専横に対し、以仁王は戦う道を選ぶこととなるのです。
以仁王の令旨
当時、平家に対する不満は全国にくすぶっていました。平家の政権にあって、従三位に任じられていた源頼政もその一人です。
頼政は源氏でありながら、保元・平治の乱で平家と行動。伊豆国に流罪となった源頼朝と対照的で、中央政界で公卿(三位以上)の地位にありました。大内(禁裏)守護であった頼政ですが、決して平家に重用されたわけではありません。
『平家物語』によれば、頼政の嫡男・仲綱は、清盛の三男・宗盛から愛馬を奪われたことがあったようです。宗盛は馬の背に「仲綱」の烙印を押して引き回し、多くの屈辱を与えました。
この話が事実かどうかはともかく、頼政らに日頃の不満が溜まっていたことは、十分に考えられます。治承4(1180)年4月、以仁王は源頼政と協力して平家討伐の兵を挙げることを決定します。
決起に先立ち、以仁王は源行家(源頼朝・義経の叔父)を召喚。行家は八条院の蔵人であり、以仁王と近い関係にありました。行家は平家追討の令旨(親王などによる命令文書)を持ち、全国の源氏のもとを訪問。挙兵を呼びかけていきます。
通常、令旨は親王宣下を受けていない以仁王が発する命令書ではありません。しかしこのとき、以仁王は自身を「最勝親王」と自称。身分を冒しての令旨としたようです。
このとき、源氏は諸国に散らばっていました。源頼朝は関東の伊豆国に配流。源義経は奥州藤原氏のもとに、源(木曽)義仲は信濃国にいます。その他にも甲斐国や近江国、美濃国に土着。平家全盛期とはいえ、全国には数多くの源氏の一族が存在していました。以仁王の令旨に源氏が応えれば、平家打倒も決して不可能なことではありません。
決起の末、戦死を遂げる
源以光への改名と土佐国配流
令旨が発せられた翌月、令旨を受けた熊野別当・湛増が平家に密告。以仁王の挙兵計画は露見してしまいます。
平家の圧力による院宣(上皇の命令文書)と勅命により、以仁王は臣籍降下によって皇籍を剥奪。源姓を下賜されて「源以光」に強制的に改名。さらに土佐国への配流が決定します。
しかしまだ頼政らの関与は明るみになっていませんでした。仲綱から知らせを受けた以仁王は、物詣を名目に女装して邸を脱出。以仁王に仕える長谷部信連が検非違使を戦って時間を稼いでいました。
以仁王は近江国の園城寺への逃亡に成功します。
宇治で戦死を遂げる
やがて園城寺に源頼政らも兵を率いて合流。平家と戦うための準備を始めています。しかし比叡山・延暦寺は、園城寺と対立関係にあり、平家打倒の協力を拒まれてしまいました。
加えて園城寺内部でも、平家に近しい勢力が多数存在しています。園城寺の衆議では、平家の本拠地・六波羅への夜討が提案されましたが、平家に心を寄せる者たちが議論を長期化。夜討は採用されませんでした。
結局、以仁王と頼政らは南都(奈良)の興福寺などを頼ることを決定。一千騎の兵と共に園城寺を出ることとなりました。
平家は清盛の四男・平知盛や五男・重衡など討伐軍を派遣。平家討伐軍は宇治で以仁王らに追いつきます。頼政らは宇治橋で防戦しますが、防ぎ切れずに後退。平等院まで撤退し、以仁王を逃す時間を稼ごうとします。
以仁王は南都の興福寺を目指して30騎ほどで脱出。しかし逃走の途中、以仁王は流れ矢を受けて戦死。享年三十。墓所は高倉神社にあります。
生存説と新時代への貢献
東国での生存説
戦死したはずので以仁王ですが、生存説も残っています。『平家物語』では、以仁王は浄衣の首なしの遺体として発見されたと記載されています。
当然、以仁王の顔を知る者は少なく、生存説は当時から囁かれていました。九条兼実の『玉葉』には、以仁王の生死についても記載。「頼政以下の軍兵は討たれたが、以仁王は生きて南都に移った噂がある」と書かれていました。
加えて以仁王と頼政は駿河を経て東国に向かったという噂まであったとされています。『玉葉』には、以仁王の身代わりに関する記載も存在。「菅冠者」という三十歳過ぎの美男子が死んだという説も紹介されていました。
当時の一級史料である『玉葉』に記載されている以上、あながち俗説ではないのかも知れません。
鎌倉幕府の根幹に関わった以仁王の令旨
平家の専横を打ち破るべく立った以仁王ですが、乱後もしばらくは謀反人として扱われていました。令旨の内容には、以仁王の即位をほのめかす内容があったようです。当然、令旨は朝廷によって看過できる内容ではありませんでした。
高倉天皇は、後白河法皇によって選ばれた後継者です。その子孫に皇位継承が行われることは、朝廷における共通の認識でした。このため、以仁王はしばらくは謀反人としての扱いをされた可能性があります。
悲運の王となった以仁王ですが、確かに平家の政権を揺るがしていました。実際に関東では源頼朝が、信濃国では源義仲が決起。奥州にいた源義経も頼朝に合流して戦い、やがて平家は滅亡へと追いやられます。
加えて頼朝は関東支配における大義名分として以仁王の令旨を掲げており、鎌倉幕府成立の根拠とさえなっていました。以仁王の決起がなければ、歴史は変わっていたのかも知れません。
【参考文献】
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