「山内首藤経俊」頼朝からの評価は低いけど母のおかげで長生きした頼朝の乳兄弟

頼朝といえば、肉親であっても容赦なく粛清する冷徹さをもつ人物ですが、頼朝に従わず敵対し、さらには頼朝に矢を射ったのに殺されず、これといって優れたところはないものの地位が安定していた人物、それが山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)です。

頼朝による評価はとても低く、簡単に言ってしまえば無能扱いされた人物なのですが、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で経俊を演じられるのは山口馬木也さん。役に対してちょっとかっこよすぎるのでは……というキャスティングですが、いったいどんな感じの経俊になるのでしょう。

平治の乱で父と兄を亡くす

山内首藤経俊は、刑部丞俊通の子として保延3(1137)年に生れました。母は頼朝の乳母の山内尼で、経俊は頼朝の乳兄弟でした。

源氏の棟梁・源義朝が敗死した平治元(1159)年の平治の乱のころ、経俊はすでに元服していましたが、病気のため参陣しませんでした。この戦で源氏方として戦った父と兄の俊綱を亡くし、経俊が家督を継ぐことになります。

頼朝と敵対した石橋山合戦

治承4(1180)年8月、源頼朝が挙兵しました。頼朝の乳兄弟の経俊には、7月の時点で頼朝から使者が送られて参陣を呼びかけられましたが、使者の安達盛長がいうには、経俊は従わなかっただけでなく悪口を言っていたとか(『吾妻鏡』治承4(1180)年7月23日条)。

石橋山合戦では経俊は平家方の大庭景親の軍に従い、頼朝に矢を放ってもいます。

経俊としては、頼朝の呼びかけはもしかすると父と兄を亡くした平治の乱を想起させ、頼朝には従いたくなかったという気持ちもあったのかもしれません。それに、この石橋山合戦だけ見れば頼朝は大敗しているわけで、ここで死んでいてもおかしくなかったのです。

石橋山合戦までは伊豆国、相模国の武士たちと、あとはほかから少しずつ。頼朝軍はわずか数百騎程度でした。この時点では、経俊の判断がとんでもない間違いだった、とはいえません。

母と頼朝の縁により助命される

石橋山合戦こそ頼朝は敗れましたが、その後10月には景親を降伏させました。景親軍に属していた経俊は捕えられて土肥実平(どひさねひら)に預けられ、所領の山内荘は取り上げられてしまいました。

11月、経俊は斬罪にされると決まりました。これを聞いて頼朝のもとに参上したのは経俊の母・山内尼です。

山内尼は、「代々源氏に忠義を尽くしてきたのだから経俊をたすけてほしい」「経俊が景親についたのは平家方に配慮しただけだし、そもそも石橋山合戦に参加した者の多くは赦されているのに、なぜ経俊は先祖の功績を考慮して赦してもらえないのか」などと涙ながらに訴えて助命嘆願しました。

これに対して頼朝は、石橋山合戦で使用した鎧を持ってこさせ、山内尼に見せます。なんと、その鎧の袖に刺さっていた矢には、ばっちり「瀧口三郎藤原経俊」と名前が書かれていたのです。ただ敵味方に分かれて戦っていただけならともかく、こうはっきりと命を狙った証拠を突き付けられては、山内尼も返す言葉がなく、すごすごと下がっていったようです。

人の命がかかった大事な交渉の場ではあるものの、気の抜けるようなエピソード。しかもなぜかこの後経俊は死刑を免れているのです。(『吾妻鏡』治承4(1180)年11月26日条)

山内尼に免じて、ということなのでしょうが、赦すつもりなら頼朝も名前入りの矢なんて見せなければいいのに、やっぱり悪口を言われたお返しくらいはしたかったのでしょうか。

無断任官、頼朝の評価

母の必至の助命嘆願のおかげで命を取り留めた経俊は、その後は頼朝に従って平家残党の追討、奥州征伐などで活躍し、頼朝上洛の折は供奉しています。

伊勢国、伊賀国の守護にまでなった経俊ですが、それに見合うだけの目立った戦功は特になく、これもやはりひとえに母のおかげなのでしょう。

文治元(1185)年4月15日、頼朝は大した手柄もないのに御家人たちが頼朝の推薦もなく任官したのに怒り、それぞれの名前とともに悪いところを書き添えました。その内容は『吾妻鏡』に記録されています。

その「東國住人任官輩事」とまとめられたメンバーの中には経俊もいました。頼朝の評は、「官好無其要用事歟。アワレ無益事哉」というもの。つまり「官職を望んだところで役に立ちもしないだろうよ、なんと無益なことだ」という感じ。

無断任官した輩は全部で20人以上いるのですが、ほかにも「顔がふわふわしてる」とか「ねずみみたいな目をしてるくせに」とかそんなことを言われてもどうしようもない見た目ディスから、「いいやつだと思ってたのにがっかりだ」というようなものまで、程度の差はあれ、総じて酷評されています。

もっとも、すべてが本音というわけではなく、勝手に任官した者たちへの怒りが募り誇張されているとは思いますが……。

元久元(1204)年、三日平氏の乱で、経俊は平家残党の攻撃を受けて逃亡したことにより、伊勢国・伊賀国両国の守護職を失いました。代わりに守護となったのは平賀朝雅で、この朝雅はのちに平賀朝雅の乱で失脚したため経俊は職の回復を願いましたが、かないませんでした。

『吾妻鏡』では、建保4(1216)年7月29日条を最後に経俊の名が消えました。『山内首藤氏系図』によれば嘉禄元(1225)年6月21日に89歳で亡くなったということです。

功績よりも残念な行動ばかりが目立ち、頼朝からの評価も低かった経俊ですが、あれだけ散々怒らせた頼朝の生存中はかわらずそれなりの地位にあり、頼朝死後もだいぶ長生きしました。

思えば、平治の乱に病気で参陣しなかったというところからある意味運がいいというか、そもそも母が頼朝の乳母だったおかげというか……。「無益」であったからこそ、こまごまとした失態には目をつぶって見逃されてきたというのもあるのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 『日本歴史地名大系』(平凡社)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館、2007年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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