「清華家」とは? 乱世に翻弄された名門貴族の序列や仕事などの実態を解説!

公卿といえば「摂関家」が有名ではありますが、他にも名門は存在します。その一つが、「清華家(せいがけ)」と呼ばれる七家です。

彼らは摂関家に次ぐ高い家格を持っており、朝廷内でも高い地位に昇ることができます。しかし、戦国乱世の影響は彼らにも及び、避難先で当主が殺害される事件も多発しました。一方で、権力者と関係を結び、上手く立ち回る家も出ています。

今回は戦国に翻弄された名門公家・清華家についてご紹介いたします。

清華家とは?

清華家とは、公家の家格の1つです。家格としては上から2番目で、摂関家に次いで高い家格です。

摂政・関白にはなれませんが、その次位である左大臣になることができますし、特に貢献した場合は太政大臣になることができる家でした。

室町幕府が機能していた時期、公家としての足利家は清華家より上位にいました。つまり、摂関家・足利家・清華家の順です。また、豊臣政権においては五大老(徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元)が清華家格の扱いをうけました。

公家としての清華家は

  • 三条家
  • 西園寺(さいおんじ)家
  • 今出川(いまでがわ)家
  • 徳大寺(とくだいじ)家
  • 花山院(かざのいん)家
  • 大炊御門(おおいみかど)家
  • 久我(こが)家

の七家が代表的ですが、時期により多少の出入があります。

清華家の略系図
清華家の略系図

清華家の仕事

朝廷の仕事

清華家は、朝廷では一般的に左大臣まで昇進します。

左大臣の職務は、朝廷政治の実質的なトップです。人事や重要な決定事項、祭祀などは天皇が行いますが、そうではない事項は左大臣とその部下である官僚がさばきます。右大臣がいる場合は二人で分担して仕事をしていました。

摂関家が就く摂政や関白は天皇のサポートが職務なので、左大臣より上位ではありますが管轄する仕事が異なります。ただし、摂関家であっても摂政・関白に就任する前に左右大臣を経験することが慣例でした。そのため、清華家当主であっても摂関家の師弟とポスト争いをすることも多々ありました。

家業相伝

摂関家は家業がありませんが、清華家は代々伝わる家業がありました。代表的なものは、有職故実・雅楽・装束です。

「有職故実」とは、朝廷におけるマナーのことです。手紙の書き方から儀式の立ち居振る舞い、服装規定などが含まれます。清華家は代々の日記をもとにマナーの知見を蓄積していました。特に有名なのは、足利義政頃に活躍した三条西実隆で、三条家の分家筋ながら故実にとても詳しく、公家や天皇の問い合わせに度々答えていました。

それに関連して、「装束」とは儀式で使う衣装の仕立てや着付けのノウハウを指します。現在、装束の家として高倉家・山科家が有名ですが、高倉家は大炊御門家から、山科家は徳大寺家から知識の伝授をされています。

また、「雅楽」は宮中で儀式や宴会の折に演奏する音楽で、笛や笙、琴など楽器ごとに流派があります。

七家

三条家

 三条家は藤原氏の一族です。摂関家と同じく藤原北家の流れですが、藤原道長の叔父とその子孫たちの一族で、閑院流(かんいんりゅう)と呼ばれています。家業は有職故実・雅楽(笛)・装束(着付け)です。

三条家は道長の叔父から数えて四代目の藤原公実(きんざね)から分かれます。彼の次男・実行(さねゆき)が、京都の三条高倉に屋敷を構えたことから「三条家」と呼ばれるようになります。三条家には分家があり、三条西・正親町三条などがあります。ちなみに戦国大名の宇喜多氏は三条家の分家です。

戦国時代、当主の三条公頼は都の争乱を避けて周防の大内義隆のもとに滞在していましたが、天文20(1551)年の大寧寺の変で殺害されました。その息子・実教も京都で間もなく亡くなり、三条家は一時的に断絶します。天正3(1575)年に三条西公宣が名跡を継いで再興されました。

三条公頼は三人の娘がいました。一人は武田信玄の正室・三条夫人、一人は本願寺顕如の妻・如春尼、もう一人は管領・細川晴元の正室になっています。

西園寺(さいおんじ)家

西園寺家も藤原北家の閑院流で、三条家と同じく藤原公実の三男・通季(みちすえ)から分かれた流れです。家業は有職故実・雅楽(琵琶)です。歌人を多数輩出している和歌に長けた家でもあります。

西園寺家は、摂関家・一条家の家礼(けれい)でした。家礼は「家来」の語源で、家礼は主の私的な行事に参加したり、主の作法に従ったりする義務がありました。

西園寺の由来は、通季の曽孫・公経(きんつね)が、京都北山にたてた寺の名に由来します。この寺の跡地は後に足利義満に譲られて鹿苑寺となりました。

今出川(いまでがわ)家 / 菊亭(きくてい)家

今出川家は西園寺家の分家で、西園寺実兼(さねかね)の子・兼季(かねすえ)が始祖です。

兼季の屋敷が京都の今出川にあったので「今出川家」と呼ばれました。また、その邸宅には菊が大量に植えてあったとか、兼季が菊を愛でたとかで「菊亭」とも呼ばれ、明治以降は「菊亭」が正式な名字となっています。家業は有職故実・雅楽(琵琶)です。

戦国時代の当主・今出川晴季(はるすえ)は、豊臣政権で公家・武家間の取次役として重きをなしました。しかし娘が秀次の妻だったため、秀次事件に連座して越後に流されました。

徳大寺(とくだいじ)家

徳大寺家も藤原北家閑院流で、藤原公実の四男・実能(さねよし)が始祖です。家名の由来は、実能が京都の衣笠岡にたてた山荘に、「徳(得)大寺」という持仏堂があったことから来ています。家業は有職故実・雅楽(笛)です。

戦国時代の当主・徳大寺実通(さねみち)は、戦乱を避けて下向した越中国で戦に巻き込まれ命を落とします。子供がいなかったため花山院家から養子を迎え、現在に至ります。江戸時代の屋敷跡は現在の同志社大学となっています。

花山院(かざのいん)家

花山院(かざのいん)家も藤原北家の一族です。三条家らの閑院流よりも遅く分家し、その流派は花山院流と呼ばれています。

始祖は藤原道長の曾孫である家忠で、彼が受け継いだ邸宅が四方に花を植えた屋敷だったことから「花山院家」と呼ばれました。家業は有職故実・雅楽(笙)で、ここも摂関家である一条家の家礼です。

花山院家は源平争乱の折に平清盛や摂関家と縁組をし、最も栄えた家のひとつとなりました。しかし戦国時代にかけては家の継承が上手くいかず、摂関家の九条家や、清華家の西園寺家から養子を迎えました。最終的には、西園寺家から公朝(きんとも)が養子となり、以降彼の子孫が家を継承します。

大炊御門(おおいみかど)家

大炊御門(おおいみかど)家も藤原北家花山院流で、始祖は藤原家忠の弟・経実(つねざね)です。

屋敷が京都の大炊御門大路に面していたため、「大炊御門家」と呼ばれました。家業は有職故実・雅楽(和琴・笛)・装束で、摂関家の一条家の家礼です。

戦国時代は後継ぎがおらず一時期断絶しましたが、遠縁の中山家から経頼(つねより)を迎えて名跡を継がせています。


久我(こが)家

久我(こが)家は清華家の中で唯一藤原氏でない一族です。流れとしては村上天皇の皇子・具平親王から始まる村上源氏で、分家には戦国武将の北畠家や赤松家がいます。久我の名は、具平親王の子・源師房(もろふさ)が現在の京都府伏見区久我に賜った別荘に由来します。家業は有職故実・雅楽(笛)です。

久我家は代々源氏のトップである「源氏長者」になり、源氏の祭祀や一族内での裁判などを担っていました。室町時代は足利氏に譲っていましたが、戦国時代は再び「源氏長者」になっていました。その後江戸時代には久我家当主のスキャンダルで権威が失墜し、徳川家が「源氏長者」を奪いました。

久我家は古文書が比較的よく残っており、江戸時代以前の清華家の経済状況を知る貴重な史料となっています。

おわりに

高い格式を持ち、朝廷の政務と伝統文化継承の両方で重要な役割を担った清華家は、戦国時代でも各方面で活躍を見せました。

しかし、戦乱による家の荒廃や当主の死の影響は大きく、江戸時代にはさらに幕府の締め付けがあり、活躍の場は限られていきました。ただ、彼らが保った伝統文化や相伝の日記は現代にも伝えられ、往時を知る貴重な手がかりになっています。


【主な参考文献】
  • 橋本政宣編『公家事典』(吉川弘文館、2010年)
  • 野島寿三郎『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ、2015年)
  • 岡野友彦『戦国貴族の生き残り戦略』(吉川弘文館、2015年)

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  この記事を書いた人
桜ぴょん吉 さん
東京大学大学院出身、在野の日本中世史研究者。文化史、特に公家の有職故実や公武関係にくわしい。 公家日記や故実書、絵巻物を見てきたことをいかし、『戦国ヒストリー』では主に室町・戦国期の暮らしや文化に関する項目を担当。 好きな人物は近衛前久。日本美術刀剣保存協会会員。

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