「文覚」源頼朝に挙兵を促した僧侶。荒廃した寺院の復興にささげた生涯
- 2022/01/19
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する文覚(もんがく)。市川猿之助さん演じる文覚は「頼朝にあやしく迫る謎の僧」とされています。武士の家系に生まれた人物ではありますが、僧侶ということもありあまり歴史上の活躍は目立たず、知名度は低いかもしれません。
文覚について書かれた『平家物語』の記述を見ると人間離れした力を使う修験者として描かれており、史実ではないエピソードも多いですが、文覚の「あやしさ」はこういうイメージからくるのかもしれません。
文覚について書かれた『平家物語』の記述を見ると人間離れした力を使う修験者として描かれており、史実ではないエピソードも多いですが、文覚の「あやしさ」はこういうイメージからくるのかもしれません。
文覚が出家した経緯
神護寺に伝わる『文覚上人画像』に記された入滅の記録を手掛かりにさかのぼると、文覚(もんがく)が生まれたのは保延5(1139)年になります。『平家物語』によれば、渡辺党の遠藤茂遠(『遠藤系図』によれば文覚の父は為長という)の子で、俗名は遠藤盛遠であったといいます。渡辺党というのは摂津の渡辺津を拠点とした武士団で、鬼退治などの伝説で知られる源頼光を祖とする摂津源氏に関わり深い一族です。
当初、盛遠は上西門院に仕える北面の武士でしたが、出家して文覚と名乗るようになりました。文覚が出家した経緯はよくわかっていませんが、読本系の延慶本『平家物語』は、渡辺渡(わたなべ わたる)の妻・袈裟御前に横恋慕し、彼女を奪おうと渡辺渡を殺すつもりが誤って袈裟御前を殺してしまい、その事件がきっかけで出家することになったという発心譚をもっています。ただ、それが史実かどうかははっきりしません。
『平家物語』に描かれる修験者・文覚
出家した文覚はあちこちの霊山を修行してまわりました。『平家物語』に、文覚が熊野の那智の滝で荒行をした時のエピソードがあります。有名な那智の滝に打たれようと思った文覚は、雪が降り積もり氷が張るほどの極寒の12月であるにもかかわらず滝壺に下りて首まで水に浸かって呪を唱え続け、数日後耐え切れずに水に浮きあがり、5、6町ほど流れてしまいました。そこにひとりの童子がやってきて、文覚を引き上げ助け出しました。
火に当たって人心地ついた文覚は、自分には大願があるのだから邪魔するなとばかりに助けた人々に文句を言い、また滝壺で水に打たれました。その二日目に8人の童子が文覚を引き上げようとするも抵抗し、三日目に文覚は息絶えました。
その時、滝の上から角髪(みずら)結いの天の童子がふたり現れ、死んだ文覚を生き返らせました。「いったいどういう方なのか」と問う文覚に、童子たちは「大聖不動明王の使いで、矜羯羅(こんがら)童子と制吒迦(せいたか)童子」と名乗り、「文覚の荒行に力を合わせよ」という不動明王の命令でやってきたのだと言います。
不動明王が見てくれているのだと思う文覚はやる気がみなぎり、21日間の大願をついに成し遂げたのでした。その後、那智に1000日参籠したのちに吉野の大峰や葛城山に数度、また高野山、粉河、金峰山、白山、立山、富士山などなど日本中を修行してまわり、都に戻ったころにはすごい修験者として名をはせたのだということです。
空海を崇敬した文覚
仁安3(1168)年、殊に空海を崇敬していた文覚は、現在の京都市右京区高雄にある高野山真言宗の寺院で、空海が過ごしたこともある神護寺に住み、修復を試みます。この荒廃した神護寺を復興させようとした文覚は、承安3(1173)年に後白河院の御所法住寺殿を訪ね、神護寺復興の寄進を強要しました。『平家物語』によると、法住寺殿ではこのとき管弦の遊びを楽しんでいるところでしたが、生来大胆不敵な文覚は恐れ多いとも思わないで庭に入り込み、勧進帳を広げて大声で長々と読み上げたのだとか。
音楽を楽しんでいたところを邪魔された後白河院は当然怒り、周囲の者が立ち去るように言いますが、文覚は動きません。騒ぎ続ける文覚は獄につながれ、寄進してもらえないまま伊豆へ配流されてしまった、ということです。
頼朝との出会い
文覚が頼朝と出会ったのはこの島流しがきっかけでした。『平家物語』によれば、頼朝が挙兵したのも、文覚が勧めたからなのだといいます。配流先の伊豆国で奈古屋(現在の伊豆の国市あたり)に住むことになった文覚は、同じく伊豆国に流されていた源頼朝のもとへよく出かけました。
その後、治承2(1178)年には中宮徳子の皇子出産(安徳天皇)による恩赦で赦免されますが、頼朝との親交は続いていたようです。『平家物語』巻第五「福原院宣」には、頼朝の父・義朝の髑髏を持ち出して将軍になれといい、すぐさま後白河院の院宣をもらってわずか8日で頼朝に届けるという記述があります。
文覚の寺院復興事業
頼朝がこの強引な仲介者・文覚をどのように感じたのかはわかりませんが、頼朝の躍進に貢献したのは確かなので、邪険にはされなかったのでしょう。その後、寿永3(1184)年に頼朝から丹波国宇都荘などが寄進されており、関係が続いていることからもうかがえます。寄進に関しては、かつて強引に寄進を求めた文覚に怒り流罪にした後白河院も、寿永2(1183)年には紀伊国桛田荘 (かせだのしょう)を寄進されています。その後も後白河院や頼朝からの寄進は続きました。
元暦2(1185)年、文覚は規律を細かく並べた「文覚四十五箇條起請文」をしたため、後白河院に提出しました。復興した神護寺をどのような寺にしていくか、細かくルールを定めた文覚の行動から、神護寺復興にかける思いの強さがよくわかります。
文治6(1190)年にはほぼ完成した神護寺に後白河院が行幸。ついに宿願が成就しました。文覚は神護寺中興の祖としてたたえられました。
佐渡、対馬に流される
その後も後白河院という強力な後ろ盾により、東寺、西寺、高野大塔、四天王寺など空海に関係する寺院の復興活動に精力を注ぎました。しかし、文覚が思うように宗教活動を続けられたのは、後白河院が崩御するまででした。後白河院は建久3(1192)年に崩御。そのころ朝廷内で力を持っていたのが源通親でした。通親は、文覚が東寺講堂の仏像修造に際して諸仏を勝手に動かしたことを理由に佐渡国へ流罪にしてしまいます。ほとんど言いがかりでした。
同じく強力な後ろ盾であった頼朝も建久10(1199)年に亡くなります。実は、うまくやっていたかに見えた文覚と頼朝との間にはひとつしこりがありました。文覚は頼朝に対し、平維盛の遺児の六代の助命嘆願をしていたのですが、六代は文覚が配流されて不在の間に処刑されていたのです。頼朝は「もし六代が謀反を起こしたら文覚はそれに味方しかねない」と言っていたとか。
赦されて佐渡から戻った文覚でしたが、建仁3(1203)年、今度は後鳥羽上皇によって対馬国に流されることになります。しかしその途中、鎮西で亡くなったと伝えられています(神護寺の沿革史によると元久2(1205)年没)。
復興事業の半ばで亡くなった文覚にかわって、その後は弟子の上覚と明恵が引き継いだとされています。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 『日本人名大辞典』(講談社)
- 校注・訳:梶原正昭・大津雄一・野中哲照『新編日本古典文学全集53 曾我物語』(小学館、2002年) 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集45 平家物語(1)』(小学館、1994年)
- 神護寺ホームページ
「神護寺沿革史」 - 真言宗 文盛山 佐渡國 真禅寺ホームページ
「真禅寺と文覚上人」
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