「阿野全成」“悪禅師”の異名をもち、頼朝の異母弟として最後まで生き残った武将

源頼朝の異母弟としては義経が特に有名です。ほかの兄弟たちはその陰に隠れがちですが、ここで紹介する阿野全成(あの ぜんじょう)も頼朝の挙兵を知ると頼朝のもとへ下向しました。弟の中で最初に駆け付けたのが全成であるといわれ、最後まで生き残ったのも全成でした。

頼朝の異母弟のうち、義経と源範頼は頼朝によって殺されていますが、全成は頼朝の死後も鎌倉幕府の有力御家人として残っていました。2代将軍・頼家のころに失脚して誅殺されるのですが、それでも頼朝が生きていた間はうまく関係を築いていたのでしょう。それでは、全成の生涯を見ていきましょう。

父の敗死により幼くして仏門に入った今若

阿野全成(幼名:今若)は、源氏の棟梁・源義朝の子として仁平3(1153)年に生まれました。母は常盤御前で、同母兄弟には乙若こと義円、牛若こと義経がいます。


常盤御前は、義朝が平治元(1159)年の平治の乱で敗死すると、今若、乙若、牛若の3人の子の助命を清盛に願い、仏門に入ることで助けられたとされています。

常盤御前による助命嘆願について、子どもたちを助けるかわりに常盤御前が清盛の妾になったというエピソードがよく知られますが、これは軍記物語による創作であると思われます。

南北朝時代から室町時代にかけて成立したとされる『義経記』は特に生々しくそのエピソードを語っています。

それによれば、六波羅に引き立てられてきた常盤を一目見た清盛は、子どもたちを火責め水責めにでもしてやろうという気でいたのがすっかり失せ、常盤が自分の意に従うならば、と子どもたちの命を助けることを約束したというのです。

いくつかの軍記物語によれば、常盤御前は近衛天皇の中宮・九条院のために集められた1000人の美女の中で最も美しかったので、清盛が一目見て妾にしようとしたという逸話でした。

しかしこのような話は物語以外では確認できないので、常盤御前が本当に妾であったかどうかは不明です。

さて、今若は仏門に入り出家しました。『義経記』によれば8歳の時に「くはんぜう寺」に入ったとあり、頭注では「京都市東山区今熊野町にある今熊野観音寺か」とされています。ほかに、『義経物語』には勧修寺、『平治物語』には醍醐寺とあり、現在一般には醍醐寺の僧となったとされています。

18歳で受戒した全成は「禅師の君」と呼ばれ、のちには「悪禅師」と呼ばれたとされていますが、この「悪」というのはそのまま悪事を働く「破戒僧」を意味するのではなく、「豪勇」を意味します。つまり、全成は武芸に優れた僧であったということです。

兄・頼朝の挙兵に応じて下向する

治承4(1180)年8月、頼朝が配流先の伊豆国で挙兵しました。全成は兄の動きを知るとすぐ下向し、10月に下総国鷲沼(現在の千葉県習志野市あたり)にあった頼朝の宿で対面を果たしています。

『吾妻鏡』治承4(1180)年10月1日条に、寺を抜け出して下向してきた全成の志に頼朝が感じ入って涙したことが記されています。全成の同母弟である義経が頼朝と対面したのも同じ月の21日のことでした。この時も対面した頼朝は今までのことを語り合い、懐かしさに涙したといいます。

一方、全成と義経はというと、『義経記』によれば頼朝との邂逅よりも早い段階(義経が鞍馬寺を出奔して16歳で元服の後)に対面していたようです。

それから全成は武蔵国長尾寺(現在の神奈川県川崎市にあった寺)に住み、その後は駿河国阿野(現在の静岡県沼津市のあたり)に住んだため、それ以降は「阿野」を名乗るようになりました。

実朝の乳母夫となる

全成は、頼朝の正室・北条政子の妹の阿波局(あわのつぼね)を妻に迎えました。ふたりの間には、嫡男の阿野時元がいます。

寿永元(1182)年に頼朝待望の長男・頼家(万寿)が生まれると、頼朝の乳母であった比企尼(ひきのあま)の娘たちを乳母に、比企尼の養子の比企能員(よしかず)を乳母夫(めのとぶ/後見人のようなもの)にしました。それから10年、建久3(1192)年に次男の実朝(千幡)が生まれると、頼朝は政子の妹である阿波局を乳母に、そしてその夫の阿野全成を乳母夫にしました。

頼朝は自分の子にそれぞれ比企氏・北条氏を近づけてやがては両氏を結び付けようとしたようですが、それを成し遂げる前に頼朝が亡くなってしまったことにより、悪い方に働きました。頼家を養育する比企氏と、実朝を養育する全成夫婦(プラス北条氏)。両者は後継者をめぐって争うようになるのです。

阿野全成の失脚

北条氏と比企氏の対立は、正治元(1199)年の梶原景時の変で梶原景時が討たれたころから表面化しました。よく思われていなかった共通の敵が片付いて、次の敵に目が向いたのでしょう。

頼朝亡き後に2代将軍となった頼家は、比企能員の娘・若狭局を妻にしており、ふたりの間に一幡という男子が生まれました。この状況は、千幡こと実朝を後見する北条氏にとってはよくありませんでした。

北条時政は今でこそ将軍生母の父つまり将軍の外祖父としてそれなりの立場を保っていますが、頼家から一幡に代替わりしたら、将軍の外祖父は比企能員になって将軍の姻戚として栄え、時政は今よりも幕政の中心から遠ざかってしまいかねないからです。

全成はこの時政やその子・義時らとともに頼家と敵対していました。そんな中、『吾妻鏡』によれば、建仁3(1203)年5月19日に全成が謀反の疑いで捕らえられるという事件が起こります。夜中のことでした。翌20日、頼家は全成の妻の阿波局も捕らえようとしましたが、こちらは姉・政子の執りなしで助かっています。

全成が謀反とは突然のことで、その内容も明らかではありません。これは頼家の側近であった梶原景時を失脚させたことへの報復でもあったようです。

阿波局と嫡男の阿野時元はなんとか連座を免れましたが、全成は同月25日に常陸国(現在の茨城県)に流され、6月23日に八田友家によって誅殺されました。享年は51歳。義経や範頼とは違って兄に殺されることはなかった全成でしたが、兄亡き後にその子によって殺されてしまったのでした。

全成の子孫

ちなみに、阿波局との間の子・時元は母方の北条氏の助けもあって命は助けられましたが、阿波局の子ではなかったらしい頼全は京都で殺されたとか。全成を祖とする阿野の家は時元の系統が継いでいきましたが、時元は実朝の死後に自害し、ほとんど勢力を失ってしまいました。

「阿野」といえば武家ではなく公家として江戸時代まで続き、明治に至って子爵となった「阿野家」があります。阿野家の祖は藤原氏北家閑院流滋野井実国の子・公佐で、この公佐に全成の娘が嫁いでいます。おそらく娘が相続した全成の遺領(阿野荘)の一部が公佐の子孫に代々受け継がれていったので、阿野家を名乗るようになったのでしょう。

阿野家の系図によれば、公佐から数えて4代目の公廉の娘・廉子(新待賢門院)は後醍醐天皇の後宮に入り、後村上天皇(南北朝初期、南朝第2代の天皇)を生んでいます。武家の阿野は何代かで途絶えてしまったようですが、全成の娘が嫁いだ公家の阿野家は長く続き、天皇までつながっていたのでした。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 校注・訳:信太周、犬井善寿『新編日本古典文学全集(41) 将門記/陸奥話記/保元物語/平治物語』(小学館、2002年)
  • 校注・訳:梶原正昭『新編日本古典文学全集(62) 義経記』(小学館、2000年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(45) 平家物語(1)』(小学館、1994年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(46) 平家物語(2)』(小学館、1994年)
  • 渡辺保『北条政子』(吉川弘文館、1961年 ※新装版1985年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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