「江藤新平」近代司法の成立に功績を残した司法卿!高潔な性格が災いして処刑された悲劇の偉人
- 2021/10/05
日本の法律や新しい裁判のしくみを構築し、類稀なる才能を持ちながらも、非業の最期を遂げた人物がいます。
司馬遼太郎の小説『歳月』の主人公で知られ、明治初期に司法卿(現在でいう法務大臣)となった江藤新平(えとう しんぺい)です。
新平は下級藩士の家に生まれますが、幼少時から才能を発揮。藩主にも認められるほどの能力を持っていました。
討幕戦では佐賀藩を代表して出陣。活躍は新政府が認められ、立身出世の道が約束されます。
新平は新政府において司法制度の確立に尽力していきました。
司法卿になった新平は不正を次々と追及。井上馨や山縣有朋など長州閥を敵に回し、政府内でも独自の動きを見せていきます。
征韓論を巡って下野すると、民権運動にも関与。しかし同時に士族反乱に巻き込まれ、自らが首領に担ぎ出されてしまいました。
新平は何を目指し、何と戦い、どう生きてきたのでしょうか。江藤新平の生涯を見ていきましょう。
優秀な少年時代
天保5(1834)年、江藤新平は肥前国佐嘉郡八戸村で、佐賀藩士・江藤胤光の長男として生を受けました。母は浅子です。
江藤家は手明鑓という下級藩士でしたが、父の胤光が才能を買われて郡目付を拝命。佐賀藩内において頭角をあらわしつつありました。
嘉永元(1848)年、少年に成長した新平が元服、翌年には藩校・弘道館へ入学。内生(初等中等)課程では藩から学費の一部を免除されるほどに優秀な成績を修めています。
しかし父・胤光が郡目付を解任されると、江藤家は生活が困窮するようになります。新平はやむなく外生課程への進学を断念し、当時傾倒していた国学者・枝吉神陽の私塾に入学しました。嘉永3(1850)年には、枝吉神陽主催の「義祭同盟」に副島種臣らとともに参加しています。
志士活動
嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に通商を求める事件が起きます。
新平は時勢に対し、大変な問題意識を持ちました。
安政3(1856)年には4章からなる長文の意見書『図海策』を藩に提出。この中で開国の必要性や蝦夷地(北海道)開拓を提案しました。
開明派の大名で当時の佐賀藩主・鍋島直正は、新平の意見書を高く評価しました。実際、佐賀藩士・島義勇に命じて蝦夷地や樺太の調査を行わせています。
安政4(1857)年、新平は藩の御火術方目付を拝命。
万延元(1860)年には上佐賀代官所手許、文久2(1862)年には代品方(貿易事務)と要職を歴任していきました。
当時は尊王攘夷運動が盛んな時代でした。
佐賀藩においても例外ではなく、文久2(1862)年の坂下門外の変( = 尊王攘夷派の襲撃により、老中・安藤信正が負傷した事件)への参加者や脱藩者を出す事態となりました。
この変の影響で、新平も三ヶ月ほど脱藩しています。通常、脱藩は死罪でしたが、藩主・直正の裁断によって永蟄居(無期限の謹慎)に減刑されました。
無禄となった新平は、小城郡で寺子屋を始めて糊口を凌ぎます。しかし裏では藩に隠れて政治活動を行っていました。
慶応元(1865)年には、長州征伐の出兵で直正らに建言書を提出。幕府との距離を置くように上申しています。
慶応3(1867)年10月、大政奉還が行われて江戸幕府が消滅。新平の永蟄居は解かれ、父が勤めていた郡目付として藩政に復帰しています。
明治新政府に出仕する
同年12月に王政復古の大号令が発布。明治政府が樹立します。
新平は副島種臣とともに上京。佐賀藩を代表して討幕派に参加することとなりました。
鳥羽・伏見の戦いでは、東征大総督府の軍艦を拝命。江戸への偵察任務に向かっています。
翌慶応4(1868)年には、江戸城無血開城に伴い、新平は城内に入って徳川方の重要書類を入手しました。
さらに新平は新政府に献言を行います。江戸への東京奠都や、東京・京都間を鉄道で結ぶことを上申。より迅速な日本の近代化を志向していました。
新平は戊辰戦争で華々しい活躍を見せます。
彰義隊討伐では、大村益次郎とともに指揮を担当。佐賀藩のアームストロング砲でわずか半日で鎮圧に成功しています。
働きが評価されたことで、江戸鎮台判事や、会計局判事、会計官東京出張所判事を歴任。新政府において着々と政治的足場を築いていきました。
同年、新平は副島種臣と共に佐賀に帰郷。参政に任じられ、藩治規約を制定しています。
ついで権大参事を拝命。藩政改革を主導し、寄合(議会)制度の導入を行なっていきました。
新平の維新の功績は高く評価されています。
明治2(1869)年には賞典禄100石を賜り、新政府への出仕を求められて上京しています。
司法卿としての功績
民法典の編纂
新平は当時、日本最初の私擬憲法となる『国法会議案、附国法私議』を起草するなど、法整備に熱心に取り組んでいました。
同年に太政官中弁を拝命。日本の近代化を推し進めていきます。
しかし敵も多く抱えており、12月には東京の葵町で佐賀藩士らに襲撃を受けました。一命を取り留めたものの、右肩に重傷を負います。
明治3(1870)年に制度取調専務を拝命。国家機構の整備に携わります。
『政治制度上申案箇条』を起草。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした、三権分立と議会制、憲法制定を志向した内容でした。
制度局では民法典編纂を担当。明治4(1871)年に立法審議機関・左院の設置により、制度局が同院に移管され、新平が左院副議長に就任した後も編纂は続きました。同年には文部大輔や教部省御用掛も兼任。学制の体系化や、警察制度整備などにも携わっています。
苛烈すぎる初代司法卿
明治5(1872)年、新平は初代司法卿を拝命。裁判事務の統一や、裁判所の設置に力を注いでいきます。
当時、新平が評価していたフランス司法制度調査とあわせ、フランス人の法律学者・ボアソナードを政府の法律顧問に雇用しています。さらに司法省の下級官僚からは、のちの大日本国憲法の十路を作った井上毅や福岡孝弟らを輩出するなど、錚々たる面々が名前を連ねていました。
しかし新平は、制度設計だけを行なっていわけではありません。
汚職撲滅のため、苛烈なまでの調査を行なっています。
盟友の外務卿・副島種臣は、パリで豪遊していた山城屋和助の件を報告。調査の結果、山城屋が公金65万円の巨額貸付を受け、損失を受けていたことが発覚します。世にいう山城屋事件です。
山城屋和助は陸軍省応接室で自殺。陸軍大輔・山縣有朋は一時的に失脚することとなりました。
さらに新平は、大蔵省の事務を取り仕切る大蔵大輔・井上馨と大蔵小輔・渋沢栄一の専横を追求。長州閥から恨みを買うこととなります。
明治6(1873)年1月、新平に対する反感は、司法省の予算削減という形で表面化しました。
新平は福岡孝弟らと共に抗議のために辞任。しかし政府から請われ、参議を拝命しています。
予算編成権が大蔵省から正院に引き上がると、大蔵大輔の井上らは辞表を提出。渋沢らと共に政府を去りました。
民権活動との関わりと佐賀の乱
日本初の近代的政党を立ち上げる
当時の新平は、長州閥に対して疑惑の数々を抱いていました。
尾去沢鉱山事件や小野組転籍事件について厳しく糾弾。後に禍根を残すこととなります。
同年10月、朝鮮出兵を巡って征韓論の議題が紛糾。新平や板垣らは西郷の朝鮮派遣に賛成し、閣議決定がなされました。しかし岩倉具視や大久保利通らにより、閣議決定の上層が握りつぶされます。
反発した新平や西郷らは、参議を辞職して下野しました。世にいう明治六年の政変です。
下野後、新平は東京に止まります。
政府を去った立場から、日本の近代化のために自分が出来ることを模索していました。
翌明治7(1874)年、副島種臣らと共に「愛国公党」を結成。日本で最初の近代的な政党の結党でした。
新平は副島や板垣退助、後藤象二郎らと「民撰議院設立建白書」に署名。『日新真事誌』に発表しています。
佐賀の乱に加担する
しかし新平の運命は思いがけない方向に動いていきます。
当時、佐賀征韓党の中島鼎蔵らが上京し、帰郷して指導に当たってほしいと嘆願していました。
副島は自重しますが、新平は承諾。士族らと慰撫するために佐賀に帰郷します。
ところが佐賀では不平士族らが跋扈し、手が付けらない状態でした。
新平が離京した後、東京では赤坂で喰違いの変が勃発。岩倉具視に対する不平士族の暗殺未遂事件でした。
内務卿・大久保利通は不平士族対策を強化。佐賀県においても、反乱対策や熊本鎮台からの出兵が進められていました。
程なく、島義勇も佐賀鎮撫のために帰郷。しかし新平と島は、反乱の首領へと擁立されてしまいます。
世にいう佐賀の乱です。
佐賀の士族軍は県庁のあった佐賀城を攻撃。佐賀県権令・岩村高俊が率いる熊本鎮台部隊を敗走させました。しかし政府軍は迅速に反撃に転じます。
大久保利通が率いる東京や大阪の鎮台部隊が九州に到着。佐賀の士族軍は福岡との県境に兵を進めていきます。
三瀬峠では佐賀軍が優勢に戦いますが、朝日山方面で敗北。田手や境原で激闘を繰り広げますが、政府軍の火力に圧倒されています。
最期、謀反人として処刑される
指名手配制度での捕縛
新平は征韓党を解散して逃亡します。次に向かったのは征韓論で下野した西郷隆盛のいる鹿児島でした。
西郷と面会した新平は、薩摩での決起を求めますが、西郷にはそのつもりがありませんでした。
新平は断られると次に高知へ渡り、林有造や片岡健吉らにも挙兵を求めます。しかしここでも武装蜂起は受け入れられませんでした。
追い詰められた新平は、岩倉具視への直接の意見陳述を考えて、上京を決意。しかし新平の思いが叶うことはなく、程なくして甲浦で捕縛され、身柄は反乱を起こした佐賀へ送還されることとなります。
捕縛については、手配写真が出回っていたために迅速に遂行されていました。
写真手配制度は、かつて新平が確立した制度です。皮肉にも制定者である自分が最初に適用される立場となってしまったのでした。
一方的な裁判の末の処刑
新平は東京での裁判を主張しますが、受け入れられません。
護送先の佐賀では、佐賀裁判所が設置。司法省時代の部下で権大判事・河野敏鎌が新平の裁判を担当しました。
裁判においては、新平が整備したはずの正規の手続きが執られることはなく、弁論や釈明の機会さえ与えられないまま、河野に死刑を宣告されてしまいます。
河野は訊問に際しては新平を恫喝さえしていました。しかし新平は逆に河野を一喝。恐れ慄いた河野は、以降の審理に加わっていません。既に内務卿・大久保利通の判断によって、裁判前から判決は決まっており、その最期はあまりに唐突であっけないものでした。
4月13日、新平は最期、島義勇らと共に嘉瀬刑場にて、既に禁止されていた斬首刑に処されています。享年四十一。
首は千人塚で梟首されるという残酷な処分が下ります。辞世は
ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため
墓所は佐賀の本行寺にあります。
明治10(1877)年、新平の盟友で書家でもあった副島種臣が墓碑銘「江藤新平君墓」を手がけています。
明治22(1889)年、大日本国憲法に伴う大赦例が公布。新平の賊名も解除されました。
大正5(1916)年には改めて功績が認められ正四位が追贈されています。
【主な参考文献】
- 毛利敏彦『江藤新平ー急進的改革者の悲劇』 中央公論新社 1987年
- 国立国会図書館HP 近代日本人の肖像 江藤新平
- サガバイドットコム 江藤新平 ~「民権」を唱えた初代司法卿~
- 佐賀県HP キッズサイト 江藤新平
- 毛呂山町HP 歴史人物 江藤新平
- 佐賀地方検察庁HP 初代司法卿 江藤新平
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