「三野村利左衛門(利左エ門)」幕末の瀕死の三井を救い、三井財閥の基礎を固めた大商人!

日本資本主義の父・渋沢栄一をして「無学の偉人」と言わしめた商人がいます。
「三井の大番頭」と称された三野村利左衛門(みのむら りざえもん)です。


利左衛門は庄内藩士の家に生まれますが、幼少時に脱藩。父を亡くした後は、悲惨な生活を余儀なくされました。
江戸に出た利左衛門は奉公に上り、小栗忠順と出会います。
一介の中間であった利左衛門は、両替商となるや莫大な富を築くまでに成長。やがて日本随一の豪商・三井組のもとで雇われるまでになりました。利左衛門は明治政府へ出仕し、第一国立銀行の設立にも関与。やがて日本初の民間銀行である「三井銀行」を設立します。


利左衛門は何を目指し、何を思い、どう戦って生きてきたのでしょうか。企業経営と課題解決に捧げた三野村利左衛門の生涯、そして渋沢栄一との関係等を追っていきましょう。


流浪と苦難の前半生

文政4(1821)年、三野村利左衛門は信濃国で庄内藩士・関口彦右衛門為芳(松三郎)の三男として生を受けました。


父松三郎は同藩の木村利右衛門の養子となっており、利左衛門もそのまま木村家の家督を相続するはずでした。しかし文政10(1827)年、松三郎は庄内藩を脱藩して浪人になります。


当時はまだ7歳の利左衛門。父や姉とともに諸国を流浪し、その旅は奥州から九州まで及ぶものでした。藩の庇護もありませんから、生活の糧や住む場所に保障もありません。利左衛門は苦難に満ちた少年時代を送ったようです。


やがて父・松三郎が九州の宮崎で亡くなります。その後、利左衛門は14歳のときに志を持って京都に上り、さらに天保10(1839)年、19歳で江戸に出たといいます。


小栗忠順との出会い

奉公先で小栗忠順と関係を築く

当時の利左衛門には、商人として生きていくという意志があったようです。
江戸では深川の干物問屋・丸屋へ住み込みで奉公を始めました。
利左衛門の真面目な働きぶりは、周囲から高く評価されていきます。


やがて利左衛門は、駿河台に屋敷を構える旗本・小栗家に雇われることになりました。ここで出会ったのが、当時はまだ部屋住みの身分で10代だった小栗家の嫡男・小栗忠順(おぐり ただまさ)です。


小栗忠順の肖像(東善寺所蔵)
幕末期の勘定奉行・小栗忠順

利左衛門は忠順よりも6歳年上で年齢が近いことから親しい関係を築いていました。のちにこの出会いが利左衛門の人生を決定づけることとなります。


弘化2(1845)年には、利左衛門は神田三河町で油や砂糖を売っていた紀伊国屋の当主・美濃川利八に見込まれて、婿養子に入ります。


妻・なかが金平糖を作り、利左衛門がそれを背負って行商に歩くという日々を送ります。利左衛門は細々と行商をしながらも、着々と資金を蓄えていきました。


両替商として大金を稼ぐ

行商を始めてから10年が経ち、利左衛門は大きな決断をします。


安政2(1855)年、貯めた資金で株を購入。両替商を営むことになりました。


両替商は、通貨交換や金融を業務とする商人です。利左衛門が営んだのは脇両替という小規模な両替屋です。金銀の両替を行う本両替と違い、もっぱら町人が利用する銭貨の売買を行っていました。


万延元(1860)年、その後を決定づける出来事が起こります。


当時、利左衛門は旧主であった、勘定奉行・小栗忠順の屋敷に出入りしていました。利左衛門はある布令が出ることを耳にします。

天保小判1両が、万延小判3両1分2朱と交換価値が設定されるというのです。いわば天保小判に通常の三倍以上の価値がつくという話です。


利左衛門はすぐさま天保小判の買い占めを実行。買い占めた天保小判を担保に金を借りて資金を創出し、新たに天保小判を買い占めるという離れ業をやってのけました。


利左衛門は人のつてで三井両替店にも売り込みを実行。鋭敏な行動は、三井両替店の主席番頭にも認められています。
三井家にとって、利左衛門は「紀ノ利」と重宝がられました。


破産寸前の三井を救い、重役に大抜擢

三井の幕府御用金の減免に成功

当時、三井組は創業以来の危機に直面しており、その上、幕府御用金(= 幕府が財政不足をおぎなうため、御用商人らに臨時に上納を命じた金銀)も大きな問題となっていました。御用金を減免・分割しないと、経営に深刻な影響が出るほどの苦況だったのです。


幕府御用金の金額は、元治元(1864)年から慶応2(1866)年の三年間に5回で、合計266万両にも及んでいました。


ただでさえ、幕末は金利の低下と長期不良貸し金の累積によって資金繰りが圧迫されています。そこで見出されたのが、勘定奉行の小栗と縁の深い利左衛門でした。利左衛門は三井組と幕府との交渉役として抜擢されたのです。


利左衛門は、元勘定組頭であり、かつて小栗の右腕であった小田信太郎に接触。小田を通じて小栗に御用金の減額を嘆願します。結果、御用金150万両を三分の一となる50万両までの減額に成功。さらに18万両まで減らした上で、三年をかけた分納という成果を勝ち取ります。


三井御用所の責任者へ

三井組から大きく評価されていた利左衛門は慶応2(1866)年、三井組に雇われることとなります。同時に「三野村」へと改姓。三井の三と、紀伊国屋の美濃川の野、かつての養家の木村の村から取ったようです。


三井の大元方(三井全事業統括機関)は、直属機関として「三井御用所(後の海運橋為換座三井組)」を設置。幕府関係の御用金業務を一手に取り仕切らせます。利左衛門は三井御用所の責任者(通勤支配格)に抜擢されました。


明治新政府とのつながりを強める

慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。旧幕府軍は新政府軍に敗れてしまいます。
旧幕府軍の敗北に伴い、主戦派の小栗忠順は御役御免を言い渡されて失脚。


利左衛門は小栗の身を案じ、アメリカへの亡命を勧めていましたが、間もなく新政府軍によって小栗は捕縛され、斬首されてしまいます。小栗の妻子は利左衛門が保護。深川に家を用意して守りました。


渋沢栄一らとの出会い

一方で薩長新政府への接近を画策するようになります。当時、利左衛門は薩摩藩との接触を持っていました。西郷隆盛とも深い繋がりを築いていたようです。同年、会計事務局為換方を拝命。「太政官札」の発行事務を引き受けることとなりました。


太政官札は、政府が資金調達のために発行した紙幣です。
当時、戊辰戦争の戦費が嵩み、殖産興業における資金は不足していました。
実際に発行された太政官札の額は、4800万両にも及びました。利左衛門は新政府に貸しを作る意味もあって協力したようです。


新政府では、多くの要人たちと関わりを持ちました。大蔵卿の大隈重信や大蔵大輔の井上馨、大蔵大丞の渋沢栄一らと知遇を得て、深い関係を築いています。


利左衛門の先見の明は見事に的中することとなります。明治4(1871)年、新貨幣との交換において、地金回収の国内実務を独占的に受注することに成功しました。


日本初の民間銀行「三井銀行」を設立

渋沢栄一らと日本初の銀行を設立

利左衛門は大元方の改革にも着手しています。時勢の動向に合わせ、大元方の東京移転を実現。三井の組織をより強固な形としました。


明治5(1872)年の新橋・横浜間鉄道開業式では、病気となった三井八郎右衛門高福の代りに祝辞を述べています。三井内部において、利左衛門がかなり信頼と実績を積んでいたことをうかがわせます。


利左衛門は銀行の設立を画策していました。
三井組は、利左衛門の指揮の下で単独での銀行設立を画策。しかし渋沢栄一に反対されています。
明治6(1873)年、三井組や小野組の合作で第一国立銀行を設立。ここに渋沢栄一も関与していました。


兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)にあった第一国立銀行の本店
兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)にあった第一国立銀行の本店

「銀行」は「バンク」の訳語です。
渋沢の伝記によると、別の発案があったことが記されています。


渋沢は「洋行」の「行」の一字に「金」を加えて「金行」とすることを提案しました。
しかし利左衛門は「交換(取り扱い)には銀も含む」と回答。結果、「銀行」という言葉が生まれたと言います。


いわば利左衛門と渋沢栄一の会話により、今日の「銀行」の名称が生まれたことになります。


三井銀行を設立

明治7(1874)年、小野組が破綻。当然危機は三井組にも波及してきます。

ここで利左衛門は迅速に行動します。大隈重信と接触すると、三井組の内部改革のための諭書を獲得。明治政府との繋がりを持って、三井内部での影響力を増大させました。


利左衛門は、日本の歴史に冠たる大きな業績を残しています。


明治9(1876)年、井上薫や益田孝らが起こした商社・先収会社の解散が決定。清算が行われていました。利左衛門は益田らを説得。先収会社の人員を引き連れて三井の下で商事会社を作るように話しています。
説得を受けた益田らは、新会社を設立。旧三井物産が誕生しています。


さらに利左衛門は、三井による銀行の単独設立を諦めていませんでした。同年7月、日本初となる民間銀行「三井銀行」の開業を実現させています。


利左衛門は、世界に冠たる三井財閥の中核企業二つの誕生に関わっていました。しかし利左衛門に残された時間は、わずかでした。


明治10(1877)年、利左衛門は胃癌によって世を去ります。享年五十七。大正4(1915)年、利左衛門の功績が認められて従五位が追贈されました。



【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。