「イエズス会」とは?設立背景から主な宣教師をざっくり紹介!
- 2021/11/09
戦国時代を知る上で、キリスト教は重要な存在です。宣教師の活動により、大名から庶民まで少なからぬ日本人が入信したことの他にも、宣教師たちが書き残した報告書は当時の日本を知る重要な手がかりになっています。
日本に初めてキリスト教をもたらしたザビエルをはじめ、戦国時代に訪れたキリスト教宣教師たちの多くは「イエズス会」の構成員です。イエズス会という名は聞いたことがあっても、そもそもどんな会なのか、何故日本に来たのか、といったことはあまり知られていないかもしれません。
今回は、そんなイエズス会の設立背景や主要メンバーなどについてご紹介したいと思います。
日本に初めてキリスト教をもたらしたザビエルをはじめ、戦国時代に訪れたキリスト教宣教師たちの多くは「イエズス会」の構成員です。イエズス会という名は聞いたことがあっても、そもそもどんな会なのか、何故日本に来たのか、といったことはあまり知られていないかもしれません。
今回は、そんなイエズス会の設立背景や主要メンバーなどについてご紹介したいと思います。
イエズス会とは?
イエズス会(Societas Iesu)は、キリスト教の中でもカトリック教会に属する男子修道会です。1534年8月15日、イタリアのモンマルトルの丘で、イグナティウス・デ・ロヨラ他6名(フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーヴル、ディエゴ・ライネス、アロンソ・サルメロン、シモン・ロドリーゲス、ニコラス・ポパディーリャ)を初期メンバーとして誕生しました。
設立背景には、この頃のヨーロッパで、従来のキリスト教に対する不信感(聖職者の腐敗など)から「宗教改革」が起こったことが挙げられます。「宗教改革」を受けて、カトリック側内部でも改革の動きが生じ、イエズス会もその流れの中で生まれました。
イエズス会の特徴は次の4つです。
- 強い上下関係。教皇に絶対服従を誓う、軍隊的組織。
- 目標達成のためにはなりふり構わない。布教の資金を得るためには、聖職者にふさわしくないとされる貿易事業にも手を染める。
- 欧州以外の布教に高い関心を持つ。世界の人類は皆平等と考えており、あらゆる人の救済を目指す。
- 布教に際しては現地の慣習に順応する。欧州のやり方を最善とせず、宣教師側が各地域に溶け込んで、地域にあった布教方法を探す。
イエズス会は現在も全世界に約2万人の会員がいます。またイエズス会系教育機関として日本では上智大学・エリザベト音楽大学があります。
なぜ日本に来たのか?
イエズス会は、発足当初より海外布教を目指していました。布教地域として日本を目指した理由として、当時の情勢が影響しています。最初にイエズス会に支援を申し出た国はポルトガル王国でした。当時、大航海時代でポルトガルとスペインは新大陸発見・新航路開拓のライバル同士です。両国は海外での領土紛争を避けるために、1494年にトルデシーリャス条約を結んで、開拓エリアの棲み分けをしていました。
この条約において、ポルトガルの担当した地域が、大西洋より西のインド・アジア方面だったため、イエズス会もポルトガル管轄地域に布教を展開することになったのです。
もしスペインが先に支援を申し出ていたら、イエズス会は日本に来なかったかもしれません。
日本に来た主なメンバー
次に来日したイエズス会の主要メンバーをみていきましょう。フランシスコ・ザビエル
- 生没年:1506~1552年
- 出身:スペイン、ナバラ王国、ザビエル城
最も有名な宣教師の一人であるフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)は、ナバラ王国の宰相家出身です。
ザビエルが幼い頃、王国はスペインの侵略にあい没落しました。優秀だったザビエルは聖職者として出世する道を目指しパリ大学に進学、24歳で哲学修士号を得て、母校で哲学の講義を担当します。この頃、宿舎で同室になったイグナティウス・デ・ロヨラの志に感化され、間もなく出世の道を捨て「イエズス会」メンバーになりました。
ザビエルは当初ロヨラの秘書をしていました。しかしインド派遣メンバーが病気になったことで急遽宣教師としてインドにわたり、マラッカで日本人・ヤジロー(アンジロー)と知り合ったことから日本行きを決意します。
1549年、ヤジローとともに彼の故郷である鹿児島に渡航し、日本にキリスト教をもたらしました。日本には2年程度滞在した後、中国の布教に向かう途中、マラッカ近郊で病没しました。
最初にザビエルと面会した戦国大名は島津貴久です。松浦隆信や大内義隆、大友義鎮(宗麟)もザビエルと対面しています。
ルイス・フロイス
- 生没年:1532~1597年
- 出身:ポルトガル・リスボン付近
天下人と親交があったルイス・フロイス(Luís Fróis)の出自ははっきりしていません。一説によると、豪農か、身分の低い騎士の出身だそうです。
10代の頃は王室付き書記官として王宮で勤務していましたが、1548年に職を辞してイエズス会に入会。1563年に日本に渡航し、1597年に長崎で病死するまで布教に尽力します。
元王室書記官のフロイスは、立ち居振る舞いが優雅で、事務仕事に秀でた人物だったそうです。交渉事も得意で、政局が不安定な畿内に乗り込み、足利義輝や三好長慶、織田信長といった面々と交渉を重ね、身の安全や布教許可を得てきました。
当時の畿内は戦が頻発する危険地帯で、仏教勢力も強い場所でしたが、そこに基盤を作れたのはフロイスの外交手腕によるものです。最終的には信長の支援を得、京都に南蛮寺を建立しました。
また、彼は勉強熱心な人物で日本語を早々に習得したほか、仏教寺院の見学や法華経の学習も進めていました。彼が残した戦国日本に関する報告書は、当時を知る貴重な史料として現在も第一線で活用されています
フランシスコ・カブラル
- 生没年:1529年頃~1609年
- 出身:ポルトガル・サンミゲル島
フランシスコ・カブラル(Francisco Cabral)の出自は不明です。彼は1570年、イエズス会の日本布教総責任者として来日しました。立場としてはフロイスの上司にあたります。
彼はフロイスとともに大友宗麟に洗礼を授け、織田信長や足利義昭にも面会しています。戦国時代の混乱を目の当たりにして日本に失望し、宣教師が必要以上に日本や日本人に関わるのを嫌いました。しかし、こうした考えは1579年に来日したヴァリニャーノによって否定され、カブラルは任を解かれてインドのゴアに移り、以降日本と関わることはありませんでした。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
- 生没年:1539年~1606年
- 出身:イタリア、ナポリ王国の名門貴族
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alexandro Valignano)は名門貴族出身で、18歳でパドヴァ大学の学位(法律)を得、教皇の側近になりました。1561年に教皇が亡くなりパドヴァに戻るものの、翌年に喧嘩で若い女性を負傷させ、ヴェネツィアの監獄に一年半収監されます。
釈放後、改心して1566年にイエズス会に入会、1573年に東インド管区巡察師に抜擢されます。以降1606年にマカオで病死するまで、日本や中国での布教に力を入れました。
日本訪問は1579年~1582年、1590年~1592年、1598年~1603年の3回です。日本布教の責任者として、日本人・宣教師の相互理解を深める方針をとりました。教育機関として有馬と安土にセミナリヨ(修道士育成の初等教育機関)を建立したほか、修道院や、宣教師のための日本語学校も設置しました。また活版印刷を日本にもたらしたのもヴァリニャーノです。
戦国武将との関わりでは、有馬晴信に洗礼を授けた他、大村純忠から長崎の地の寄進を受けました。天正遣欧使節を引率したのも彼で、2回目の出国時と3回目の入国時は使節とともに行動しています。
ヴァリニャーノは中国への布教も力を入れました。彼がイエズス会に招いたマテオ・リッチ(利瑪竇)が中国にキリスト教をもたらしたのもこの頃です。
おわりに
今回は「イエズス会」の設立背景と、有名な宣教師たちのプロフィールを概説しました。しばしば脇役として登場する彼らは、謎の存在になりがちですが、実は世界史の流れの中でイエズス会に巡り合い、日本にたどり着いた人々でした。
彼らひとりひとりを見つめることで、日本国内にとどまらない大きな世界の繋がりを感じ取ることができるのではないでしょうか。
【主な参考文献】
- 高橋裕史『イエズス会の世界戦略』(講談社メチエ、2006年)
- 浅見雅一『フランシスコ=ザビエル』(山川出版社、2011年)
- 桑原直已『キリシタン時代とイエズス会教育』(知泉書館、2017年)
- 高橋裕史『戦国日本のキリシタン布教論争』(勉誠出版、2019年)
- 五野井隆史『ルイス・フロイス』(吉川弘文館、2020年)
- イエズス会日本管区
- 上智大学HP 世界のイエズス会系教育機関
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