「北条宗時」石橋山の戦いで若くして亡くなった北条義時・政子の兄

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では片岡愛之助さんが演じられる北条宗時(ほうじょう むねとき)。主人公・義時やその姉・政子らの兄ですが、かなり早い時期に亡くなったこともあり、あまり知られておらず、情報が少ないためよくわからないところが多い人物です。

北条時政の長男として生まれる

北条時政から数える得宗家(北条氏の家督)の当主を継いだ二代目は、次男の義時でした。しかし、宗時存命中は宗時が後継者として扱われていたものと思われます。

北条氏略系図を見ると宗時が先に生まれていたらしいことがわかり、ふたりの通称を見ても宗時が「三郎」、義時が「四郎」なので、宗時が長男だったのでしょう。

宗時の生年は不明ですが、義時が長寛元(1163)年生まれ(没年から逆算)なので、それよりは前に生まれていたことはたしかです。


石橋山の戦いで討死した宗時

頼朝が以仁王の挙兵に従って兵を挙げた治承4(1180)年8月、宗時も父の時政や弟の義時とともに頼朝の軍で戦いました。

『曾我物語』には、8月17日に伊豆目代・山木兼隆の城を攻めた際、時政、宗時、義時の三人が大将軍として戦ったとあります。

また、歴史書『吾妻鏡』には、その数日後の8月20日条に「北條四郎」「子息三郎」「同四郎」の名が登場します。北条父子は伊豆から相模国土肥郷(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町あたり)をめざす頼朝軍の中に加わり、8月23日の石橋山の戦い(石橋山は現在の小田原市)で戦ったのです。

頼朝軍はこの戦いに敗れました。『吾妻鏡』の8月23日条によると、頼朝軍はわずか300騎、それに対して平氏方の大庭景親らの軍は3000余騎だったようですから、多勢に無勢でなすすべもなかったのではないでしょうか。

24日、宗時ら北条父子は同じように景親と戦っていましたが、疲れ果てて頼朝についていくことができず、分かれています。そして同日中、時政と義時は箱根湯坂から甲斐国(現在の山梨県あたり)へ向かい、宗時は土肥から桑原(現在の静岡県田方郡函南町)に降りて平井郷へ向かう途中、早河のあたりで伊東祐親(すけちか)軍に囲まれ、平井久重に討ち取られてしまったといいます。

宗時を討った人物としては他に、延慶本『平家物語』には伊東入道助親入道が、長門本『平家物語』には伊東入道祐信法師が、『源平盛衰記』には伊豆五郎助久が記されています。

なぜ二手に分かれたか

この時、宗時が時政・義時とは別行動をとった理由について、どちらか一方が生き残れば北条氏が存続できると考えたためとする説があります。「真田丸」で描かれた真田父子の関ケ原合戦時の選択に似ています。

その後の北条氏

宗時の死から22年、『吾妻鏡』建仁2(1202)年6月1日条に、夢のお告げがあったという時政が宗時の菩提を弔うために伊豆の北条に下向したという記述があります。宗時の墓は、亡くなった桑原郷にあるということです。たしかに、現在北条宗時の墓は桑原郷があったという函南町の駅からほど近い場所にあります。

ところで余談ですが、一般に宗時の死後は義時が嫡男となったと理解されているものの、実際すんなりと義時が後継者になったかどうかは疑問が残ります。

宗時が亡くなったタイミングで確認できる時政の男子は次男の義時と三男の時房(この時は時連)。単純に考えれば宗時のすぐ下の弟である義時が嫡男の地位につくのが妥当なところですが、どうやらすぐに後継者の地位を得たわけではないようです。

というのも、義時は宗時の死の翌年の養和元(1181)年から「江間(江馬)」姓を名乗るようになったからです。江間といえば伊豆国江間を本貫地とする江間氏の所領ですが、もともと江間氏といえば頼朝に敵対する伊東祐親と近しい一族。江間氏は篠原の戦いで敗れたため、おそらく空いた江間の地が義時に与えられたのでしょう。

この時点で義時は北条から出て新たな江間の家の初代となっていたわけで、時政の後継者とはみなされていなかったのではないかと思われます。

では、実際に義時が得宗家の二代目当主になるまでの間は誰が後継者と目されていたのか。時房や牧の方所生の政範(宗時が亡くなった時点ではまだ生まれていない)が考えられますが、よくわかりません。

しかし、時政が寵愛する牧の方の子を後継者にと考えた可能性は十分考えられます。のちに時政と牧の方、政子と義時に分かれ対立することになりますが、対立の芽は嫡男・宗時の死の時点で出ていたのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 校注・訳:梶原正昭・大津雄一・野中哲照『新編日本古典文学全集(53) 曾我物語』(小学館、2002年)
  • 佐藤謙三・小林弘邦訳『東洋文庫125 義経記2』(平凡社、1968年)
  • 渡辺保『北条政子』(吉川弘文館、1961年 ※新装版1985年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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