「後藤象二郎」幕末に大政奉還に尽力し、のちに板垣退助らと自由民権運動を進め、閣僚も務めた民権家

坂本龍馬にして「同志」「才物」と言わしめた人物がいます。大河ドラマ『龍馬伝』にも登場した土佐藩士・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)です。

象二郎は幕末に大政奉還を建白。時代の転換点に大きく関わりました。明治政府においては参議をはじめとした要職を歴任。板垣退助とともに立身出世を遂げます。しかし征韓論をめぐって政府上層部で政争が勃発。これに敗れると板垣とともに政府を飛び出して自由民権運動を展開することとなりました。

彼は何を目指して活動し、何と戦って生きたのでしょうか。後藤象二郎の生涯を見ていきましょう。


土佐藩士として生まれる

土佐藩上士の家に生まれる

天保9(1838)年、後藤象二郎は土佐国高知城下で土佐藩士・後藤正晴の長男として生を受けました。母は大塚勝従の娘です。幼名は保弥太と名乗りました。


父・正晴は馬廻格で150石の知行を受ける上士の身分でした。
象二郎の遠縁には、同じく上士階級出身である乾(板垣)退助の名前も確認できます。
二人はお互いの幼名を呼び合うなど、幼馴染として過ごしていました。


嘉永元(1848)年、父・正晴が江戸の藩邸で病没。象二郎は11歳にして、家督を継ぐこととなります。


吉田東洋から薫陶を受ける

幼い象二郎の養育を助けたのが、義理の叔父・吉田東洋でした。
東洋は学識豊かな人物で、藩政改革にも携わった政治家です。
象二郎は東洋の少林塾に入門。板垣退助や福岡孝悌らと机を並べ、のちの「新おこぜ組」の原型を築いています。


東洋の薫陶を得た象二郎は、順調に出世の階段を登ります。
安政5(1858)年には、藩参政となっていた東洋の推薦によって幡多郡奉行を拝命。万延元(1860)年には、大坂藩邸建築の普請奉行に就任しています。文久元(1861)年には御近習目付となり、藩主に近似する立場となりました。


後藤象二郎の肖像(土佐藩士時代)
土佐藩士時代の後藤象二郎

しかし象二郎の立場は突如として一変します。
文久2(1862)年、東洋が土佐勤王党らによって暗殺。後ろ盾を失った象二郎は、役を解かれてしまいました。


坂本龍馬と大政奉還、パークスとの関わり


『龍馬伝』でも描かれた、坂本龍馬との関わり

土佐勤王党が藩政を掌握すると、象二郎は一旦故郷を離れる決断をします。
文久3(1863)年には、江戸に遊学。開成所(東京大学の前身)で幕臣・大鳥圭介から英語を学ぶなど、新しい知識に触れて自己の研鑽に努めています。


元治元(1864)年には、尊王攘夷運動が退潮。藩政は前藩主・山内容堂が掌握していました。
同年に象二郎は藩政に復帰。容堂の熱い信任を受け、大監察や参政を拝命しています。
象二郎は容堂と同じく、公武合体派閥に所属。以降、土佐藩を代表する立場で活動していくこととなりました。


2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図
2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図。

公武合体は、幕府と朝廷が協力して政治を行なおうとする思想です。象二郎は参政の立場から佐幕派に近い位置で藩政を進めていきました。慶応元(1865)年、土佐勤王党の党首・武市半平太(瑞山)を捕縛。半平太をはじめ、土佐勤王党員の多くを処刑しています。


しかし象二郎は、藩外にも目を向けていました。
慶応2(1866)年には、長崎に出張。上海にまで渡り、海外貿易のあり方を見ています。

当時、長崎の亀山には坂本龍馬が海援隊の本拠を置いていました。海援隊は薩摩藩の援助を受けた私設軍隊です。
象二郎は海援隊と関わりを持ち、坂本龍馬の後援者へとなっていきました。


大政奉還の建白とパークスの護衛

当時の情勢は、幕府の衰退と討幕派の台頭が目立っていました。
慶応3(1867)年、象二郎は大政奉還を推進。土佐藩は徳川慶喜に大政奉還を建議して受け入れられます。
象二郎は働きが認められて中老格を拝命。700石の禄と役料800石の計1500石を有する大身となりました。


二条城二の丸御殿大広間での「大政奉還」を描いた図(頓田丹陵筆、聖徳記念絵画館蔵)
二条城二の丸御殿大広間での「大政奉還」を描いた図(頓田丹陵筆、聖徳記念絵画館蔵)

土佐藩などの公儀政体派にとって、大政奉還は新たな政治体制の切り札でした。大政奉還後には平和裏に新体制が構築される見通しでした。


しかし同年に小御所会議が開催。薩摩藩が中心となって徳川排除が進みます。
王政復古の大号令が発布されると、将軍職は廃止が決定。慶喜が政治に復帰する可能性は事実上無くなりました。


慶応4(1868)年1月に、旧幕府と薩長新政府との間で鳥羽・伏見の戦いが勃発。新政府は錦の御旗を掲げ、官軍となりました。


土佐藩は乾退助らが討幕派として参加。以降は象二郎も新政府に近い立場で活動します。
2月にはイギリス公使・パークスの護衛を担当。パークス一行を襲撃した、攘夷派の朱雀操を斬り捨てています。


自由民権運動と蓬莱社


明治政府の参議から自由民権運動へ

同年には明治政府が樹立。土佐藩も中心勢力の一角をなす存在となります。
藩内の実力者である象二郎も、要職に起用されることになりました。
明治政府において、象二郎は参議を拝命。長州の木戸孝允や薩摩の西郷隆盛、大久保利通らと肩を並べる立場となりました。


さらに同年から明治3(1870)年まで大阪府知事に在任。中央政治を主導する立場でありながら、地方行政にも影響力を持つこととなりました。


明治4(1871)年には、左院議長や工部大輔に就任。議会制度導入と社会基盤の整備の点から、日本の近代化に取り組んでいきます。


同年には岩倉具視らが欧米に条約改正交渉のために出国。象二郎は留守政府を預かる一人となりました。
しかしこの留守政府が、象二郎の政治生命を決定づけることなります。


明治6(1873)年、岩倉具視や大久保利通らが欧米から帰国。留守政府との間に征韓論を巡る争いが勃発します。象二郎は板垣とともに西郷らの征韓派に所属。しかし政争に敗れて下野することとなりました。


征韓議論図(鈴木年基 作)
征韓議論図。中央左に岩倉具視、中央右に西郷隆盛。論争は岩倉派が勝利し、敗れた西郷・江藤らによる士族反乱に繋がった。

象二郎は土佐に帰国し、次の道を模索します。
板垣や佐賀の江藤新平らと愛国公党を結成。政党政治実現のために指導者として取り組んでいきます。
民撰議院設立建白書(※1)には、象二郎も署名。民選議会の開設を要望し、自由民権運動の糸口をつくりました。


※1 政府に対し、はじめて国会開設を要望した建白書であり、自由民権運動の発端となった歴史的文書のこと。


蓬莱社を設立し、近代産業に携わる

政党政治を実現するため、象二郎は金銭面での自立を模索していました。
明治7(1874)年、象二郎は「蓬莱社(ほうらいしゃ)」を設立。政治資金を調達するための商社を立ち上げました。


蓬莱社は、士族や島田組や鴻池組らによって設立された会社です。
金融や為替業、鉱山経営や海軍業にまで進出。しかし典型的な「士族の商売」であり、経営不振が続きました。


象二郎らは、長崎の高島炭鉱の経営も担当。政府から55万円で払い下げを受けたものでした。
しかし炭鉱の操業で、なかなか利益は上げられませんでした。
明治8(1875)年、象二郎は高島炭鉱は旧土佐藩士の岩崎弥太郎の三菱に売却。権益と引き換えに、97万円を得ています。


明治9(1876)年には、蓬莱社は倒産。事業の失敗によって、象二郎は多額の借金を抱えました。
しかし蓬莱社は、近代的な商業モデルを展開。象二郎らの行った事業の歴史的意義は大きなものでした。


明治10(1877)年には、鹿児島で西郷隆盛が挙兵。最大の士族反乱である西南戦争が勃発します。
立志社の林有造らは挙兵を計画。政府に逮捕される事件も起こっています。


象二郎や板垣は無関係な立場を貫きました。
もはや武力で政治を変える時代ではなくなっていたのです。


自由党の重鎮


自由党の副党首となる

政治運動において、象二郎や板垣が志向したのは言論活動でした。


明治12(1879)年には、盛んになる自由民権運動を受けて、参議・山縣有朋が国会開設の建議を提出。政府は参議全員に意見書を求めています。


明治13(1880)年には、国会規制同盟第2回大会が開催。同大会に基づいて自由党準備会が発足しています。


このころの板垣退助の肖像画(44歳。出所:wikipedia)
このころの板垣退助の肖像画(44歳。出所:wikipedia

明治14(1881)年10月、国会開設の詔が発布されました。
程なく自由党が結党。象二郎は党首・板垣退助を補佐する副党首として加盟します。
自由党は日本で最初の近代的な政党でした。


象二郎は板垣との洋行を計画します。
国会開設に先んじて、欧州の各先進国の議会制度を視察する目的がありました。
しかし象二郎たちには資金がありません。
一時は洋行を疑問視する同志から、自由党内で批判も起きたほどでした。
そこで象二郎は自らの高島炭鉱を岩崎弥太郎に完全に譲渡。代償として政府宛未納金25万円を肩代わりさせています。


明治15(1882)年、象二郎は横浜から出港。フランスやドイツ、イギリスなど欧州を歴訪しています。


政党内閣で要職を歴任する

言論活動はやがて身を結ぶこととなります。
明治20(1887)年、象二郎は伯爵に昇叙。同時に大同団結運動(※2)の隆盛に乗り、指導者として注目されていました。


※2 1886~89年にかけて展開された自由民権運動後期の政治運動。後藤象二郎、星亨、中江兆民らによって進められた。


政府は保安条例を施行して民権家たちを弾圧。象二郎自身も保安条例の対象のリストに一時は掲載されていました。
結局、政府はリストから象二郎を削ります。同時に象二郎に対して入閣要請を発出。黒田清隆総理大臣のもとで、逓信大臣を拝命しています。



象二郎の動きに対して、民権家は変節だと糾弾。しかし象二郎は大同団結運動を貫くことを誓いました。閣内において政党内閣の実現を目指して行動した象二郎は、大隈重信の条約改正交渉を批判し、黒田を辞職に追い込んでいます。

象二郎はその後の内閣でも逓信大臣や農商務大臣を拝命。山縣有朋や松方正義らのもとで、政党の人脈を使い多数派工作を行なっています。


※参考: 後藤象二郎の閣僚歴
内閣公職
2代内閣:黒田内閣逓信大臣
3代内閣:第1次山縣内閣逓信大臣
4代内閣:第1次松方内閣逓信大臣
5代内閣:第2次伊藤内閣農商務大臣


しかし明治27(1894)年、商品取引所開設に伴う時間の収賄事件が判明。象二郎は責任を取る形で大臣を辞職することとなり、以降政治の表舞台に立つことはありませんでした。


明治29(1896)年、象二郎は心臓病を罹患。箱根で療養生活に入っています。しかし翌明治30(1897)年に病没。享年六十。墓所は青山霊園にあります。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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