「山内容堂」幕末四賢侯の一角たる土佐藩主!将軍家に忠義を尽くすも、幕府に引導を渡した?

 歴史上の人物として不動の人気を誇る坂本龍馬を輩出したのが土佐藩ということはよく知られていますが、龍馬は重罪である脱藩を経て活動した後に、赦免されて藩籍に復帰するという数奇な経歴をもっています。また、土佐からは多くの有名志士が出ており、一見すると尊王攘夷の気風がとても強い国だったような印象を受けます。

 しかし実際には他の多くの藩と同様に複雑な国内事情を抱えており、龍馬をはじめとした志士たちの活動もそこに大きな因果関係がありました。そんな幕末の土佐藩を率いたのが、第15代藩主・山内容堂(やまうち ようどう )です。

 容堂は幕末の「四賢侯」の一角に数えられる人材として知られ、武士による政権を終わらせた勢力の一人でした。その人生や人となりがクローズアップされることは少ないですが、今回はそんな山内容堂の生涯について概観してみることにしましょう。

出生~安政の大獄

 山内容堂は文政10年(1827)10月9日、代々の土佐藩主・山内氏の分家である南屋敷山内氏、豊著の長子として高知城下に生を受けました。幼名は輝衛、後に兵庫助、諱は豊信(とよしげ)でよく知られる「容堂」は号を指しています。

 弘化3年(1846)、父・豊著の死去に伴い南屋敷山内家の家督を継承。嘉永元年(1848)、容堂にとって従兄にあたる土佐藩主・山内豊惇が病没するに際してその養子となり、同年12月27日に第15代土佐藩主に就任しました。

 翌嘉永2年(1849)の正月には、容堂の叔父である第12代藩主・山内豊資の末子・鹿次郎を養子に迎えます。この鹿次郎はのちに第16第藩主を継ぐ、山内豊範のことです。嘉永3年(1850)9月には、右小弁・烏丸光政の娘で右大臣・三条実万の養女となっていた正姫と結婚しました。

 藩主就任当初の容堂は隠居していた12代・豊資や旧来の重臣らに主導権を握られていたといいますが、嘉永6年(1853)の黒船来航以来、一躍その存在感を高めました。これには容堂が大目付に抜擢した吉田東洋の功績が大きく、米国国書に対する土佐藩意見書の起草を東洋が担当しました。

吉田東洋の肖像
参政として革新的な藩政を行なった結果、最期は暗殺された吉田東洋。

 容堂は海防強化や西洋式軍備導入、財政改革などの藩政刷新に東洋をあたらせ、同年11月には新設の参政(仕置役)職に任命しました。その当時、幕府内では開国をめぐる議論に加え、将軍継嗣に関わる派閥抗争も表面化していました。将軍継嗣問題の対立構図は以下のとおりです。

◆ 南紀派(徳川慶福を支持)
  • 井伊直弼(大老)
  • 平岡道弘(御側御用取次)
  • 薬師寺元真(御側御用取次)
  • 松平容保(会津藩主)
  • 松平頼胤(高松藩主)
  • 水野忠央(紀伊新宮藩主)
など…
VS
◆ 一橋派(一橋慶喜を支持)
  • 徳川斉昭(前水戸藩主)
  • 徳川慶勝(尾張藩主)
  • 松平慶永(越前藩主)
  • 島津斉彬(薩摩藩主)
  • 伊達宗城(宇和島藩主)
  • 堀田正睦(老中、佐倉藩主)
など…

 容堂は第14代将軍に一橋慶喜を推す、いわゆる一橋派に属しており、条約勅許問題も含めて三条家との姻戚によるパイプを利用して積極的に朝廷への工作を行ったといいます。しかし紀州藩主・徳川慶福を推す南紀派の井伊直弼が大老に就任し、一橋派への弾圧をはじめとした安政の大獄が引き起こされたのは周知の通りです。

 この影響は容堂にもおよび、安政6年(1859)2月26日、依願隠居により家督を養子の豊範に譲りました。しかし同年10月11日に幕府より謹慎の沙汰が下り、以後2年半にわたって江戸・品川の鮫州別邸での蟄居を余儀なくされました。

謹慎~王政復古

 容堂の謹慎中、尊王攘夷運動が高まっていた国内では土佐勤皇党が台頭。土佐勤王党は文久元年(1861)に、江戸留学中だった武市半平太らが尊王攘夷を掲げて結成された結社であり、坂本龍馬も加盟しています。

 勤皇党は参政・吉田東洋に尊王攘夷を主張するも、公武合体論を方針とする土佐藩内で支持を得ることはできませんでした。その後、翌文久2年(1862)4月、勤皇党員によって吉田東洋が暗殺され、藩の実権は武市半平太らが掌握することになります。

武市半平太が獄中で書いた自画像(京都大学付属図書館 蔵)
武市半平太が獄中で書いた自画像(京都大学付属図書館 蔵)

 容堂が謹慎解除となったのは東洋暗殺の直後であり、その後も公武合体に向けての運動を続けましたが、結果として実を結ぶことはありませんでした。

 容堂は山内氏の徳川将軍家への累代の恩義から、朝廷を立てつつも幕府への忠義を守ろうとした痕跡がうかがえるといいます。彼の政治的立場はいわゆる公武合体派でしたが、土佐藩内では志士を弾圧するなど、そのスタンス・思想に対しては「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と同時代人から揶揄されています。

2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図
2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図。容堂の思想は多面的だった?

 文久3年(1863)正月には将軍上洛に先立って入京、同年3月には土佐へと帰国します。隠居の身ではありましたが、実権を土佐勤皇党から奪還すべく、武市派への大弾圧と藩政の立て直しに取り組みました。

 同年の八月十八日の政変で朝廷から尊王攘夷派が一掃されると、その動きはさらに加速。同年末に上京した容堂は朝議参預に任命されますが意見の対立により、病を理由に帰国。ほどなく参預会議自体が解体されました。元治元年(1864)の長州征討には深く関わらない立場をとり、慶応元年(1865)閏5月には収監していた武市半平太に切腹を命令。ここに土佐勤皇党は壊滅しました。

 容堂は復権派を率いて藩政を軌道に乗せることを企図しますが、慶応2年(1866)1月22日に坂本龍馬・中岡慎太郎らの手で薩長同盟が締結。すでに事態は容堂の掌中には余る状況となっていました。ちなみに龍馬や慎太郎は吉田東洋暗殺前に脱藩しており、慶応3年(1867)2月に脱藩罪を赦免されています。

 先述の通り、容堂は佐幕の意志をもっていましたが趨勢は倒幕へと傾いており、同年10月にはついに後藤象二郎らの建策を容れて大政奉還の建白を徳川慶喜に行いました。いわば幕府に引導を渡す形ともなり、同年10月14日に最後の徳川将軍・慶喜は朝廷に政権を返上します。

二条城二の丸御殿大広間での「大政奉還」を描いた図(頓田丹陵筆、聖徳記念絵画館蔵)
二条城二の丸御殿大広間での「大政奉還」を描いた図(頓田丹陵筆、聖徳記念絵画館蔵)

 しかし同年末、12月9日に王政復古の大号令が発せられた直後の小御所会議において、徳川宗家を中心とする列侯会議による政体を主張。この会議に招集されなかった慶喜をはじめ、徳川家の擁護を激しく訴えたといいます。容堂はこのとき泥酔状態での列席であり、岩倉具視ら一部の公卿が年少の明治天皇を傀儡としているといった主旨の論難を行いました。

 会議は容堂の発言を不敬とし、これを逆に糾弾。結果として容堂の主張は無視され、薩長を中心とする公議政体派が完全に主導権を握りました。容堂は維新政府の議定に就任していましたが、その立場はやはり微妙といわざるを得ない状況でした。

鳥羽・伏見の戦い~最期

 慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、容堂は土佐藩兵100名の戦力を京都に派遣。その上で戦闘に参加しないことを命じます。しかし、前年に土佐藩と薩摩藩の有力者の間で交わされていた薩土密約に基づき、この兵力は容堂の命令を無視して官軍側につきます。

 また、土佐本国で開戦の報を受けた乾退助(板垣退助)は下級藩士らを中心とした迅衝隊(じんしょうたい)を率いて上洛。この部隊は官軍兵力として会津戦争までを戦い、のちに明治天皇への拝謁や身分の昇格などの優遇措置を受けています。

 このような事実からも分かる通り、維新前後においてはすでに容堂は土佐藩勢力をコントロール下に置くことができておらず、新政府内での影響力もほとんど有していませんでした。

 明治政府における容堂は先述した議定ののち、内国事務局総督・刑法官知事・学校知事・制度寮総裁・上局議長を歴任しましたが、明治2年(1869)7月に辞職。麝香之間祗候(じゃこうのましこう)という維新の功労者としての名誉職待遇を受け、浅草橋場の別邸に隠棲しました。

 元来が酒好きとして知られた人物でしたが、晩年にあたる維新後は多くの妾を囲い、詩作と酒に溺れるかのような放埓の日々を過ごしたとされています。その散財は家産を圧迫し、側近から戒められるもこれを容れず、時に武市半平太のような人材を処断したことを悔いることもあったといいます。

 明治5年(1872)6月21日、容堂は満45歳でその生涯を閉じました。その魂は、東京都品川区東大井四丁目の下総山墓地に眠っています。ここはかつて、土佐藩下屋敷のあった土地としても知られています。

おわりに

 山内容堂といえば、映像作品や文芸作品などではあまり英雄的な描かれ方はされないイメージが強いようです。土佐藩が輩出したその他多くのヒロイックな人材の影に埋もれている感はありますが、幕末において英邁と評された君主の代表格であったことは間違いないでしょう。

 その論理の一貫性に疑いをもつ同時代人の証言が残されていますが、徳川将軍家への忠節を貫こうとした姿勢は最後まで変わりませんでした。それだけに、大政奉還の建白という形で徳川幕府に引導を渡す形になったことは、歴史の皮肉のようにも感じられますね。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
  • 高知県立坂本龍馬記念館 山内容堂公邸跡

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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