「牧の方」北条時政の継室。謀略をめぐらせ頼朝猶子を将軍にしようとした?
- 2022/02/10
北条政子の父・北条時政には何人かの妻がいたとされます。そのうちのひとりが、時政と年が離れた継室・牧の方(まきのかた)です。
平氏と院近臣につながりをもつ牧の方
牧の方は駿河国大岡牧の豪族牧氏出身の女性で、牧宗親の娘あるいは妹とされています。天台宗僧侶・慈円によって書かれた歴史書『愚管抄』によれば、牧の方は大舎人允宗親の娘(『吾妻鏡』では妹とする)で、同腹の兄弟には五位の大岡判官時親がいるということです。宗親は平清盛の異母弟である平頼盛に仕えており、頼盛の所領である駿河国大岡牧を支配していたといいます。また、その地の豪族とされるものの、牧氏は武士ではなかったとしています。
杉橋隆夫氏によれば、牧の方は平頼盛の母・池禅尼(いけのぜんに/清盛の義理の母)の姪にあたるといいます。牧の方の父・宗親が池禅尼の兄弟で、彼らの一族は院近臣として京に基盤を持っていたとされてます。
池禅尼は夫・平忠盛が亡くなってからは家長代理のような存在でした。牧の方がそんな池禅尼やその子・頼盛とつながりをもつとするならば、なぜ無位無官の北条時政と婚姻することになったのか、少し疑問です。
岡田清一氏は、伊東氏や時政が大番役(地方武士が交代制で京の警護をした)で上洛した際に朝廷の有力者と結びつく機会があったのではないか、と述べています(『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』)。
池禅尼といえば、平治の乱の後頼朝の助命嘆願をしたことで知られます。そのつながりから頼朝も恩を忘れず、頼盛の家系は鎌倉幕府の御家人として仕えました。
頼朝の配流先が時政のいる伊豆になったのも、牧の方経由で池禅尼とつながりがあったからかもしれません。といっても、最初の監視役は時政ではないのですが。
北条時政の継室となる
牧の方は時政に嫁ぎ、政範、平賀朝雅室、稲毛重成室、宇都宮頼綱室、坊門忠清室らを産んだとされます。いつごろ時政の室になったのかはよくわかっていませんが、寿永元(1182)年の亀の前に関する『吾妻鏡』の記事には牧の方が登場するので、そのころにはすでに婚姻していたことがわかります。
亀の前事件
寿永元年6月、政子の妊娠中に頼朝は良橋太郎入道の娘・亀の前を愛妾にして寵愛しており、家臣の邸に置いて密かに通っていました。政子がそれを知ったのは11月のことです。『吾妻鏡』の11月10日条には、怒った政子が牧の方の父・宗親に命じて亀の前が滞在する伏見広綱の屋敷を破壊させたことが記されています。その時政子に頼朝の浮気を教えた人物こそ、牧の方でした。つまり、亀の前事件の引き金は牧の方の告げ口だったわけです。
牧氏事件
牧の方がいざこざを引き起こしたのはその事件だけではありません。牧氏事件の経緯を見ていきましょう。京で起こった事件
実朝は京から妻を迎えることを望みました。そこで選ばれたのが坊門信清の娘です。元久元(1204)年11月、信清の娘を迎える使節が上洛すると、平賀朝雅の邸で酒宴が開かれました。その時、使節の一員・畠山重保が口論になるという事件が起こりました。口論の内容はわかりませんが、時政と重保の父・畠山重忠は比企氏の乱の武蔵国の戦後処理をめぐって対立していたため、時政の室・牧の方の娘婿である朝雅に愚痴をこぼした、あるいは時政を非難したのかもしれません。そもそも、武蔵守であった朝雅が上洛してから時政が武蔵国の行政権を握ったので、時政と重忠との対立に朝雅も無関係ではなかったのです。
この事件とは別にもうひとつ、11月15日に時政と牧の方の子・政範が京で病死するという出来事がありました。これは口論事件とは無関係のはずですが、息子の死を悲しむ牧の方はふたつの出来事が関連するように感じたのかもしれません。
畠山重忠の乱
政範の死の悲しみの中にある牧の方に、娘婿・朝雅が重保について讒言しました。彼にとっては単なる愚痴程度だったのかもしれませんが、この讒言はさらに大きな事件に発展していきます。元久2(1205)年6月21日、牧の方から話を聞いた時政は、「重忠・重保を討伐しようと思うがどうか」と義時・時房に相談しました。その場でふたりは反対しましたが、後に牧の方が「重忠の謀反は発覚しているから将軍や世のために時政に伝えたのに、あなた(義時)は重忠にかわって言い訳をして、私が讒言したかのようなことを言う。私が継母だから悪人に仕立てようというのか」と訴えたため、しぶしぶながら重忠討伐に出ることになりました。
翌22日、重忠は討ち取られました。しかし、潔白を訴える重忠は旅装のままで、重忠軍は100余騎と少なく、討伐軍は彼が本当に謀反を企てたのかと疑問に思いました。結局重忠の謀反は偽りだったのだと理解され、讒言した牧の方と討伐を強行した時政は立場を失いました。
牧の方の陰謀と時政の失脚
時政は乳母夫として実朝を自邸に置いて権力を握っていましたが、閏7月19日に牧の方が実朝を殺して朝雅を将軍にしようとしている(朝雅は頼朝の猶子)という噂が流れ、危機感を抱いた政子は実朝を義時の邸に置くことにしました。それまでは北条氏VS比企氏という対立がありましたが、比企氏が追いやられて以降は時政・牧の方VS政子・義時という対立が始まっていたのです。牧の方の陰謀の風聞は、対立を決定的なものにしました。
時政が実朝の乳母夫として実権を握ったといっても、乳母夫という立場は生母・政子に任されたものにすぎません。時政の権力は、政子の鶴の一声でいつでも失ってしまうようなものだったのです。
立場を失った時政は出家し、幕府の執権職には義時が就任しました。時政は20日に鎌倉を離れて伊豆国の北条へ移り、牧の方もそれに従ったとされています。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『日本人名大辞典』(講談社)
- 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
- 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
- 渡辺保『北条政子』(吉川弘文館、1961年 ※新装版1985年)
- 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)
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