「片倉小十郎景綱」秀吉と家康も家臣に迎えたかった!?伊達政宗の名参謀

優れた戦国大名には、往々にして卓越した参謀や軍師がいます。
秀吉にとっては竹中半兵衛や黒田官兵衛、家康は本多正信といったところでしょうか。
いずれも戦国時代の中心で活躍した人物ばかりです。

しかし奥羽(東北)にも、彼らに負けない名参謀がいました。伊達政宗の腹心となった片倉小十郎景綱(かたくら こじゅうろう かげつな)です。景綱は幼少期からの政宗を支え、共に天下を目指して歩んでいきました。

時に政宗の盾となり、人生を導く師となった景綱。ここでは彼の生涯を見ていきましょう。


神職の次男として誕生

不遇の幼年期

弘治3(1557)年、片倉小十郎景綱は、成島八幡宮の神職・片倉景重の次男として片倉館で生まれました。母は本沢刑部真直の娘・直子と伝わります。異父姉に喜多、義兄に鬼庭綱元がいました。


生後間もなく、景綱は跡継ぎのいなかった親戚の藤田家に養子に出されています。しかし藤田家に実子が生まれたため、景綱は片倉家に返されました。実の両親は幼少期に没したため、姉の喜多に養育されたと言います。


喜多は文武両道に通じ、兵書を好んでいたという女性でした。景綱と綱元は、喜多の教えを強く受けて育ったと言います。


永禄10(1567)年、主君の伊達輝宗に嫡子の梵天丸(後の政宗)が誕生します。ここで喜多は政宗の乳母に抜擢されました。喜多は独身であったため、実質的には養育係であったようです。記録上は「保姆」とされています。


国家の大器と評される

さらに景綱にも転機が訪れます。

天正年間の初めごろ、米沢城下で大火がありました。そこで景綱は活躍を認められ、輝宗の徒小姓として近侍することになります。


伊達輝宗の肖像画
景綱の主君、伊達輝宗は家中を統制して、衰退していた伊達氏を再び盛り返した。

景綱は周囲からの期待を受けていました。当時の伊達家の宰相であった遠藤基信は、景綱に直接剣術の指導をしたと伝わります。景綱は後に伊達家中で「武の伊達成実」と並び「智の片倉景綱」と称されています。


これは、決して文弱だったわけではなく、幼少期の政宗の剣術指南を務めるほどの腕前だったと言われています。剣術の腕前は勿論ですが、智謀の面も遠藤基信のもとで培われたと考えられます。


天正3(1575)年には、遠藤基信の推挙によって政宗の近侍を命じられることになりました。『片倉代々記』には、景綱への遠藤の期待の大きさが記されています。


「遠藤山城某、(景綱の)人たるを見て、後来国家の大器たるべしと称美すといへり」


主君・政宗との二人三脚

政宗の生涯の腹心となる

政宗は幼少時代、天然痘で右目を失明しています。そのため容貌にコンプレックスを持ち、引っ込み思案な性格に育っていましたが、それを変えたのは景綱でした。


政宗は、天然痘の後遺症で右の目が外に飛び出た状態でした。容貌を気にした政宗は、近習の者に刀で潰すよう命じたと言います。
近習たちは恐れて従うものはいません。そこで景綱が小刀で政宗の右目を潰したと言います。あまりの激痛で政宗は卒倒したと言います。


主君に刃を向けるのは、尋常のことではありません。景綱も切腹覚悟であったと思われます。しかし政宗は意識を取り戻すと、景綱に礼を述べたと言います。


このように、景綱は傅役として政宗を厳しく躾けていきました。



政宗との絆の強さ

景綱は、政宗の腹心として様々な任務に参画しています。


天正10(1582)年、輝宗が相馬氏を攻めた際には景綱は会津の蘆名盛隆へ援軍要請の交渉を行っています。


盛隆が景綱に宛てた書状からは、今後の政宗の取次を期待していることがうかがえます。
この段階では景綱が政宗の腹心だと認識されていたようです。


しかし決して、景綱は家中で権勢を誇るような人物ではありませんでした。景綱の傅役としての覚悟をうかがわせる逸話が残されています。


天正12(1584)年、景綱の夫人が懐妊しました。しかし景綱は悩みます。政宗は田村家から愛姫を娶り、以来五年の間子供に恵まれていなかったのです。

景綱は、生まれた子供を殺すと周囲に話していました。主君より先に子供が出来たのが不忠だと考えていたのです。
しかし政宗は景綱を必死で諭します。

結局、景綱は我が子を手にかけることを断念しました。景綱が命がけで傅役を務めていたことがわかります。


伊達家での従軍歴

討死覚悟で政宗の身代わりに

景綱の命がけの戦いはまだ続きます。

天正13(1585)年、人取橋の戦いが起こりました。伊達軍七千に対し、敵軍は佐竹義重、蘆名家など三万を超える大軍でした。

この戦いは苦戦し、政宗も命の危機に瀕しています。実際にこの時、政宗は敵兵に包囲されたことがありました。景綱は自らを政宗だと自称して敵兵を惹きつけ、政宗の窮地を救っています。

景綱も政宗も、討死を遂げてもおかしくない状況でした。二人が生き残ったことは、ほとんど奇跡的なことだったと言えます。

この戦いは、結果的に佐竹家の撤退もあって、伊達家が勝利を掴み取りました。景綱がいなければ、この勝利は無かったと言えるでしょう。



景綱の諫言で政宗を豊臣家に出仕させる

景綱はその後も、伊達家の主要な戦いに従軍。天正16(1588)年の郡山合戦、同17(1589)年の摺上原の戦いと戦歴を重ねていきました。


伊達軍はこの間に仙道筋を南下し、蘆名家の居城会津黒川城を制圧。伊達家は奥羽六十六郡のうち、半分の三十余郡を領するに至ります。

しかし伊達家には、重大な危機が迫っていました。豊臣秀吉は関東から奥羽まで、私戦を禁止する「惣無事令」を出していました。蘆名家との戦は、この惣無事令違反とされたのです。


天正18(1590)年、秀吉は小田原征伐に出陣。従う将兵は二十万という大軍でした。秀吉による天下統一事業の総仕上げです。


木造復元の白石城(宮城県白石市益岡町)
「豊臣 vs 北条」の総力戦となった小田原征伐。豊臣の大軍を前に北条は成すすべなく滅亡した。

このとき、伊達家は北条家と同盟関係にありました。伊達の家中では豊臣家との抗戦論が沸騰しますが、景綱はこれに反対し、評定の席で小田原の出仕を主張しました。しかし景綱の意見は少数派だったといいます。


その日の夜、政宗は景綱の屋敷を訪れ、真意をただします。景綱は「今大勢に敵対なされることはご運の末」と諫言しました。結局、政宗は小田原へ参陣して改易を免れています。


『片倉代々記』によると、景綱は政宗と二人だけの場で本心を語り合える関係であったとしています。


景綱の諫言がなければ、政宗が出仕しなかった可能性もあります。そうすれば、伊達家も領地を没収されていたかも知れません。
景綱の器量は、天下人である豊臣秀吉にも評価されていたようです。


奥州仕置の際、秀吉は景綱を直臣に取り立てた上で、三春五万石を与えようと打診しました。しかし景綱は政宗への忠義を重んじて辞退しています。


その後、景綱は文禄2(1593)年から始まった文禄・慶長の役に参陣。政宗と共に主だった戦いのほとんどに関わっています。


関ヶ原に勝利し、仙台藩の礎を築く

相打ちの策を政宗に献策する

豊臣秀吉の死後、豊臣家中における勢力争いが表面化していきます。

慶長5(1600)年には関ヶ原の戦いが勃発。徳川家康は会津の上杉景勝討伐に動き、その周辺大名と共に包囲の構えを見せました。伊達家も包囲網の一員として参加しています。


景綱はこの包囲網形成にも動いていました。相馬家の家老・加藤左近と会談して徳川方に付くように説得しています。
景綱が戦や外交に置いて、入念な事前調整と調整が行っていたことが見えます。


家康は下野国の小山に到着すると、石田三成を討つために西上に転じます。
そこを契機に事態が大きく動きました。直江兼続率いる上杉軍が、最上義光の領土に攻め込んだのです。


義光は甥である政宗に援軍を要請してきました。景綱はこの時、政宗に最上と上杉の相打ちを献策しています。


上杉軍が最上の山形城を攻めて兵を損耗する。その段階で伊達家が兵を出せば、直江兼続を倒した上で、最上領も併呑できる、というものでした。


しかし政宗は首を縦に振りませんでした。『貞山公治家記録』には、次のように記述があります。

政宗は「最上とは長年不和だった。しかしこの度は家康公のため。第二には最上領にいる母を見捨てられない」と語ったいいます。


白石城主・片倉小十郎

関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わりました。慶長7(1602)年、景綱は白石城一万六千石を賜りました。これは関ヶ原の時に伊達軍が占領した城です。南の備えとして重要な場所でした。


木造復元の白石城(宮城県白石市益岡町)
木造復元の白石城(宮城県白石市益岡町)

この頃、家康から「江戸に屋敷に与え、家臣に迎える」、と誘いがあったと言います。秀吉に続いて、二度も天下人から直臣への誘いです。


景綱はまたもやこれを固辞します。「伊達家に奉公することは、天下に奉公すること」として伊達家に仕え続ける道を選んだのです。


しかしこの頃にはすでに病が景綱の体を蝕んでいました。景綱は亘理領内の神宮寺村で療養し、慶長10(1605)年に白石に移っています。


慶長19(1614)年、徳川幕府と豊臣家に大坂の陣が開戦。しかし景綱は病床に伏しており、従軍していませんでした。ここで嫡男の重綱(重長)を参陣させています。


重長は大坂夏の陣において大手柄を挙げています。道明寺の戦いにおいて、豊臣方の後藤又兵衛基次を討ち取りました。重長は「鬼の小十郎」の異名を取るほどの活躍ぶりでした。


景綱は嫡男の成長を見届け、元和元(1615)年に59歳で病没しました。死後、家臣6名が殉死しています。どれだけ慕われていたかを思わせます。

景綱の死後、藩内における片倉氏の家格は「御一家」とされました。これは一門(一族)に継ぐ位です。それだけ景綱の功績は評価されていたのです。

片倉家の当主は代々「片倉小十郎」を名乗り、明治維新まで白石城を統治し続けました。通常、一国一城令によって藩内には城は一つまでです。しかし白石城は例外とされています。



【主な参考文献】
  • 桐野作人『〈伊達政宗と戦国時代〉上がる鉄砲装備率/片倉小十郎景綱』 学研パブリッシング 2014年
  • 川村要一郎編 『白石城主片倉氏と家臣の系譜』 創栄出版 1997年
  • 置賜文化フォーラムHP 「置賜が生んだ戦国武将 片倉小十郎景綱」

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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