「相楽総三」 人気マンガ『るろうに剣心』で有名な赤報隊隊長は、なぜ ”偽官軍” にされたのか?

 草莽の志士の中には、幕末の政局を動かすような活躍をした人物もいました。漫画『るろうに剣心』でも知られる、赤報隊隊長・相楽総三(さがら そうぞう)がその一人です。

 総三は早くから尊王攘夷活動に参加すると、やがて薩摩藩の指示を受けて、江戸で治安を乱しはじめます。旧幕府の挑発に成功した総三は赤報隊を結成。年貢半減令を掲げて行進していきました。しかし突如として偽官軍に認定、諸藩に攻撃命令が出されると、捕らえられてしまうのです。

 維新の功労者となるはずだった総三に、まさかの結末が待っていました。彼は何と戦い、何を目指して生きてきたのでしょうか。本記事では相楽総三の生涯を見ていきます。

総三は郷士と学者の二刀流!?

郷士の四男から家督相続

 天保10年(1839)、相楽総三は江戸の赤坂で下総国相馬の郷士・小島兵馬満茂の四男として生を受けました。母はやすです。本名は小島四郎(左衛門)将満と名乗りました。

 小島家は、小島兵馬の代に旗本金融で財を成しました。暮らしむきは豊かだったようで、総三も何不自由ない暮らしを送っていたと推察されます。江戸の赤坂に広大な家屋敷を構えていたと伝わります。

 総三は四男だったので、本来は家督を継ぐ立場にはありませんでした。しかし不幸にも兄が不慮の事故で夭折し、他の兄も他家に養子入りしていたことで、総三が家督を相続する立場となります。

 また、総三は熱心に国学と兵学を学んでいて、相当な学識を備えていたようです。その学識の高さから、若いころより私塾を開いて百人もの門人を抱えるほどになっていたといいます。

「華夷弁」を著す

 当時は黒船が来航し、尊王攘夷運動が隆盛でした。総三も尊王攘夷に共感し、文久元年(1861)には、上野国や秋田を遊歴して同志を得ています。

 文久3年(1863)には、小島家から5000両(今でいうと5億円程度?)もの大金を受け取り、関東における義勇軍の組織化に関わると、元治元年(1864)には、天狗党の乱にも参加。新田義貞の末裔・俊純を戴いて人心を掌握しようと画策します。しかし計画が漏れたことで失敗し、江戸に戻っています。

 総三は関東での尊王攘夷活動に限界を感じていました。慶応2年(1866)には上洛して、より多くの討幕派の人物たちと関わっていきます。春には「華夷弁」という論文を執筆。討幕派の志士たちの間だけでなく、長州藩主・毛利敬親が同感して跋文を書いて与えたほどでした。

 やがて総三の名は、討幕派の中でも知られていき、そして運命を変えたのは薩摩藩との関わりでした。総三は薩摩藩士の伊牟田尚平と交友関係となり、彼からの紹介によって、京都で西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利通)らと面識を持つようになるのです。

討幕のための戦い

江戸市中の治安を乱す

 総三の討幕運動は、過激なものでした。

 翌慶応3年(1867)からは、西郷の命を受けて江戸周辺の倒幕活動に関わっていきました。同年10月13日、討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に降下。西国と関東で同時に討幕派が挙兵する計画が練られていました。

 総三は西郷の意を受けて、江戸三田の薩摩藩邸を拠点に活動を開始します。薩摩藩士・伊牟田尚平と益満休之助らの協力のもと、江戸での騒擾を画策。総三らの下には、数百人を超える浪士たちが集結していました。

 騒擾を誘発するための行動は、凄まじいほどの悪行でした。総三の手下たちは、放火や略奪、婦女暴行などを実行。徳川幕府を挑発していきます。受けた指示から、総三らは特に攻撃対象を以下に定めていました。

  • 幕府を助ける商人と諸藩の浪人
  • 志士の活動の妨げとなる商人と幕府役人
  • 唐物を扱う商人
  • 金蔵を持つ豪商

活動停止命令

 さらに総三は、関東の三ヶ所で挙兵する計画を立てていました。しかし討幕の密勅降下と同時に、将軍・徳川慶喜は大政奉還を断行。討つべき幕府が消えたことで、討幕の密勅は名目を失ってしまうのです。

 こうして討幕のための挙兵は中止となり、薩摩藩は江戸の藩邸に総三らの工作活動停止を命令します。大政奉還の翌日にも、念を押して鎮まるように呼びかけています。

 当時の在京の討幕勢力は、薩摩藩などわずかな人数でした。旧幕府と戦争になれば、必ず勝てるという保証はありません。むしろ挑発行動は、薩摩藩の首を絞める結果に繋がる恐れがありました。

 大政奉還の際にも、薩摩藩は薩土同盟(武力討幕同盟)と薩土盟約(大政奉還実現と公議政体論への意向を目指す)を締結。主戦と穏健、両端を持した行動を取っています。

 大義名分がない以上、薩摩にとって旧幕府と戦うことは得策ではありませんでした。

赤報隊の結成

 討幕の挙兵は、すでに志士たちの間に広まっていました。すでに火がついた討幕派の志士たちは収まりません。総三らは薩摩藩の命令を無視し、騒擾行為は拡大の一途を辿っていきます。

 同時に関東では総三の同志たちが次々と挙兵。11月には八王子宿で、12月には下野国出流山、相模国山中陣屋で討幕派のが武力衝突を始めています。いずれの浪士たちも、三田の薩摩藩邸に帰還していきました。

 当然、旧幕府軍が黙って見ているわけはありません。12月15日、江戸の市中警備を担当する庄内藩は、諸藩とともに薩摩藩邸を包囲し、焼き討ちを決行しました。総三らは命からがら藩邸を脱出して品川沖に停泊中だった薩摩の軍艦に乗り、紀伊国への逃亡に成功しています。

 庄内藩による焼き討ち事件は、京都や大坂に伝わりました。結果、勢い付いた大坂城の旧幕府軍は決起。京都を目指して進撃し、鳥羽伏見の戦いが勃発しています。

 慶応4年(1868)1月9日、総三は脱出先の紀伊国から近江国に入ります。西郷や岩倉具視の支援を受けて、総三は金剛輪寺で赤報隊を結成。公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主と定めます。

 隊名は「赤心(ありのままの心)をもって国恩に報ぜん」という意味を持ちます。赤報隊は、一番隊から三番隊で編成されていました。

  • 一番隊:代表である総三が隊長を兼任。江戸から行動を共にしてきた草莽の同志たちが中心でした。
  • 二番隊:鈴木三樹三郎が隊長です。鈴木は御陵衛士(新選組の脱退者)出身で、兄は新選組の総長も務めた伊東甲子太郎でした。御陵衛士出身の隊士が数多く所属していました。
  • 三番隊:近江水口藩士・油川錬三郎が隊長を務めています。水口藩士をはじめ、近江国出身者で構成されていました。

 赤報隊は、薩摩や長州などの新政府軍の露払い的な存在でした。新政府から課された任務は、敵地への情報探索や討幕派への誘引活動が主たるものです。

年貢半減令を触れ回る

 赤報隊の活動には、朝廷への上奏(天皇に意見を申し述べること)も含まれていました。

 総三は、新政府に「官軍之御印」の下賜( 身分の高い人が、身分の低い人に与えること)と「年貢の軽減」を嘆願します。その結果、年貢半減令の布告許可が新政府から降りました。

「是迄幕領之分総テ当分租税半減」

 ”年貢を半減する”という内容のものです。ただ、新政府は巧妙なことに、赤報隊に年貢半減令の布告許可を与えた一方、新政府軍の証し(印)である「官軍之御印」は与えることはしませんでした。

 こうして1月14日、年貢半減令が布告されます。赤報隊は「御一新」として、”年貢半減”を掲げて進軍していきました。18日、赤報隊は近江国・岩手村を占領。武器や弾薬を供出させた上で、20人を従軍させています。

 やがて、赤報隊の前途に暗雲が立ち込めていきます。

 22日、総三率いる一番隊が出立。続いて綾小路や滋野井ら、二番隊と三番隊も岩手村を発つ予定でしたが、25日には新政府から帰京命令が出されます。二番隊と三番隊は桑名に進軍した後に、命令に従って京都に戻り、解散しているのです。

 帰京命令の理由は、27日に密かに取り消された年貢半減令にありました。新政府は戊辰戦争の軍資金として、大坂の豪商・三井や鴻池らから300万両(3000億円)を借金として調達。担保としたのが「年貢取扱い権付与」でした。

 このとき総三は年貢半減令の取り消しを知りませんでした。そのまま独断で赤報隊の一番隊を東山道に進軍させ、現地で”年貢半減”を掲げて民衆の熱狂的な支持を受けていきました。

 しかし実際のところ、新政府はこの約束を履行できるような財政状態にはなかったようです。

偽官軍として処刑される

 赤報隊は碓氷峠を目指して進軍。新政府は帰還命令を発出しますが、総三らはなおも従いませんでした。そしてついに新政府は、赤報隊を勝手に”年貢半減”を触れ回る「偽官軍」に指定、信州諸藩に捕縛命令を通達しました。

 要するに、赤報隊は新政府によって切り捨てられたのです。

 総三は東山道総督府に出頭。隊を留守にしたところ、小諸藩などが赤報隊に攻撃を加えてきます。そして総三は下諏訪で捕縛されると、赤報隊の幹部らと共に厳寒の中で三日間、外に晒されました。結局、総三らは満足な取り調べを受けることはありませんでした。

 3月3日、総三は幹部とともに下諏訪で斬首。享年三十。墓は青山霊園立山墓地にあります。

 妻・照は総三の訃報を聞くや、息子の河次郎を総三の姉に託して自害。総三の首級は、国学者・飯田武郷によって盗み出されて葬られました。

総三の家族。総三の死後5~6年後撮影。右から父・兵馬、子・河次郎、兄・良正の娘、姉・はま子(出典:wikipedia)
総三の家族。総三の死後5~6年後撮影。右から父・兵馬、子・河次郎、兄・良正の娘、姉・はま子(出典:wikipedia)

 明治3年(1870)には、下諏訪に魁塚(相楽塚)が建立。伊那県大参事・落合直亮(元赤報隊隊員)の手によるものでした。

 偽官軍とされた赤報隊ですが、総三の孫・木村亀太郎が総三らの名誉回復のため、赤報隊関係者とともに奔走した結果、のちに名誉回復がなされたようです。昭和3年(1928)に昭和天皇の即位に際し、総三に正五位が追贈され、また翌昭和4年(1929)には靖国神社に合祀されました。

長野県諏訪郡下諏訪町木の下にある「魁塚」(相楽塚とも。出典:wikipedia)
長野県諏訪郡下諏訪町木の下にある「魁塚」(相楽塚とも。出典:wikipedia)


【主な参考文献】
  • 長谷川伸 『相楽総三とその同志』 講談社 2015年
  • 歴史群像編集部 『ビジュアル幕末維新』 学研 2012年
  • 歴史スペシャル編集部 『ビジュアル幕末1000人』 世界文化社 2009年
  • 西澤朱実 『相楽総三 赤報隊史料集』 マツノ書店 2008年
  • 下諏訪町HP 相楽総三関係資料

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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