将軍直属、でも謁見はできなかった?「御家人」の意味を解説
- 2022/05/18
御家人(ごけにん)という言葉も、時代劇などでは比較的よく聞くものではないでしょうか。武士であることは間違いないのですが、なんとなく自由人というかアウトローっぽい雰囲気を感じるのは、メディア作品の影響かもしれませんね。
しかしそんなイメージにも、当たらずとも遠からずの確かな根拠があるのです。今回は、御家人とはどんな身分の武士たちだったのかについて概観してみましょう!
しかしそんなイメージにも、当たらずとも遠からずの確かな根拠があるのです。今回は、御家人とはどんな身分の武士たちだったのかについて概観してみましょう!
御家人とは
御家人に含まれる「家人(けにん)」という言葉は、元々貴族や武家の棟梁に仕える家臣・従者を指すものでした。鎌倉幕府が開かれ、武士の政権が樹立されると、特に鎌倉殿と直接の主従関係を結んだ者を「御家人」と呼ぶようになりました。室町幕府ではこの御家人制度を採用しなかったものの、将軍直属の「奉公衆」を指して御家人と呼んだ例が古文献で確認できます。
戦国時代になると、戦国大名の家臣を指して使う例もみられ、求心力が幕府から一国の統治者へと推移していったことをうかがわせます。しかし、現在イメージされる「御家人」といえば、近世武士の身分制度に関することが一般的かもしれません。
江戸幕府においては、将軍直属の家臣で知行1万石以下の者を「直参(じきさん)」と呼びました。その直参のうち「御目見(おめみえ)」、つまり将軍への謁見が可能な身分を「旗本」、そうでないものを「御家人」と区別しています。
※参考: 江戸幕府の軍事基盤(将軍の直臣の分類)
直参 (知行1万石未満) | 大名 (知行1万石以上) |
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ただし、これは習慣としての区分であり、当時の法的に明文化されたものではないという指摘もあります。端的には、将軍直属の下級武士が御家人にあたるといってよいでしょう。
御家人は有事においては徒士(かち)、つまり歩兵相当の兵員であり、平時には経理部門の勘定所やインフラ整備の普請方、番士あるいは与力・同心といった警備・警察機構などに所属することが多かったようです。
近世の御家人の待遇
上記のような身分から、御家人は武士といえども馬や扉付きの駕籠などには乗れず、家にも玄関を設けられないなどの格式制限がありました。御家人の総人数は正徳年間(1711~16年)の時点で約1万7200名おり、そのうち知行地をもっていたのはわずか1%未満でした。大多数は俸禄として米を支給される蔵米取であり、禄高は最高でも260石、最低では4両1人扶持でした。
御家人の家格には「譜代」「二半場(にはんば)」「抱入(かかえいれ、または抱席)」の3階層がありました。
「譜代」とは初代・徳川家康~四代・家綱の時代に留守居与力や同心などの職を務めた家臣の子孫で、御家人のうちではもっとも上流とされました。譜代の御家人は無役となった場合には、旗本同様に小普請組へと編入されるのがならいでした。
御家人中間層の「二半場」は、同じく家康~家綱の時代に西ノ丸留守居与力・同心を務めた者の末裔です。退役後には目付支配無役と呼ばれる身分になり、家督の相続が許可されるようになりました。
最下層の「抱入」は、やはり初代から四代にわたる徳川将軍の時代に、大番・書院番・町奉行の与力・同心などに採用された者の子孫、あるいは五代・綱吉以降に御目見以下として召し抱えられた者の末裔です。この抱入の身分では、退役と同時に御家人の家格を喪失するのが特徴のため別名を「一代抱(いちだいかかえ)」ともいいます。しかし実際には、自身の子を引き続き抱入の身分で仕官させるのが一般的だったとされています。
江戸時代中~後期になると、生活に困窮した抱入の御家人がその席を売るということが行われるようになりました。これは「御家人株」と呼ばれ、体裁上は養子縁組などの形で富裕な町・商人らが武士の身分を手に入れられるようになります。
有名なところでは幕末海軍の父とも呼ばれる勝海舟の家系がそうで、海舟の祖父・銀一が御家人株を入手して男谷家を興し、のちに旗本へと昇進した経緯があります。
御家人が就けた役職
天保年間(1831~45)に御家人が就任できる幕府の役職は、実に240種以上にのぼります。しかし家格ごとに就ける職が細かく分かれており、それぞれに制限が設けられていました。譜代は鳥見や天守番をはじめとする計78種、二半場は奥坊主や表坊主などの計46種、抱入は徒や代官手附などの120種とされています。
御家人はこのように、上官である旗本の指揮命令下で任務にあたる実働部隊としての性格を備えていたのです。
おわりに
武士は表向きには副業が禁止されていたものの、生活に困窮していたものが多かったことから副業が黙認されていたといいます。
直参といえど下級武士だった御家人においてはもちろんのことで、学問や武術の師範をはじめ、傘張りや提灯張りといった手仕事までバリエーション豊かな内職に精を出しました。また、屋敷の敷地を利用した朝顔やツツジなど観葉植物の栽培もおおいに行われたといいます。
御家人は同役の者らが組屋敷で集住するという生活スタイルだったため、組織的に仕事を斡旋して取り組むならわしがあったようです。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
- 『日本大百科全書』(ジャパンナレッジ版) 小学館
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