八万騎の将軍近衛兵!?「旗本」の意味を解説
- 2022/10/25
「旗本(はたもと)」という言葉は武士の身分の中でも、ある種特別な響きをもって語られるイメージがないでしょうか。そこに誇らしさと職務への自負が込められた場合、士道をまっとうする侍としての高潔さすら感じさせますね。
しかし、旗本というのはどのような位置付けの武士を指すのかは、意外と知られていないもの。そこで今回は、旗本の意味を解説してみたいと思います!
しかし、旗本というのはどのような位置付けの武士を指すのかは、意外と知られていないもの。そこで今回は、旗本の意味を解説してみたいと思います!
旗本とは
旗本とは、将軍直属で知行1万石未満の「直参(じきさん)」と呼ばれた家臣のうち、御目見(おめみえ)が許された身分の武士を指す言葉です。御目見とは将軍に謁見することであり、同じ直参でもこれが許可されていない身分を「御家人」といいます。もっともこの区分は法文化されたものではなく、17世紀後半以降から慣例的に分けられていったものという指摘もあります。
戦国時代での旗本といえば、主君の近衛兵のような位置付けが知られていますが、語源はまさしくそのような状況にあったといえます。これは征夷大将軍の唐名(中国風の呼び名)を「幕下(ばっか)」といい、本営を表す「帷幕(いばく)」と部隊の象徴である「軍旗」を守護する将士という意味で「旗本」と呼ばれるようになりました。
俗に「旗本八万騎」といわれ、将軍直下の兵力が充実した様子を表すことがありますが、実際にはどうだったのでしょうか。
旗本の総数は寛政年間(1789~1801)で約5200家といわれており、御家人の約1万7000家と合計しても2万2千家超という数字になります。ただし、これにそれぞれの家臣団などを加えると、ゆうに8万以上の兵力になると考えられます。
旗本は元々、初代・徳川家康の三河以来の旧臣や、武田氏・今川氏・後北条氏などの戦国大名の旧臣などで成り立っていました。旗本や大名の子弟で本家から知行地を分与されたり、新規に召し出しを受けたりした者もまた構成員となっています。
江戸時代中期以降には5代綱吉、6代家宣、8代吉宗らの家門大名時代の旧臣からも採用され、儒学者や医師などの特定分野の専門家もまた旗本に取り立てられる例が増えていきます。
これ以降には功績のあった御家人が旗本へと昇進することもありましたが、通常の場合では御目見以上の者が就く役職を3度経験することが、非公式の条件だったともいわれています。
旗本の給与
旗本の給与(俸禄)には「知行取(ちぎょうとり)」と「蔵米取(くらまいとり)」の2種類がありました。前者は実際に領地が与えられ、そこからの収入を報酬とするものです。一方、直轄領からの収税分から決まった額の米を支給されるのが後者で、現代のサラリーマンとよく似たシステムといえるでしょう。
領地経営によって収益を得る知行取は、武士本来のあり方としてこれを希望する旗本は多かったといいます。
18世紀以降になると、大名家の家臣は多くが所定給与として支給される蔵米取の形態となるものの、旗本においては知行取の割合が比較的高かったことがわかっています。
18世紀後半時点での知行取の旗本の人数は2908名、対して蔵米取は2030名となっています。しかも、前者は275万石超であるのに比べて後者は45万俵あまりと、知行取の経済規模の方が圧倒的に大きかったことを示しています。
旗本の職務
旗本は普通、老中や若年寄の配下として組み込まれていました。平時は武官系職務の番方(ばんかた)や事務系職務の役方(やくかた)の各業務に従事しており、有事の場合は戦闘員として従軍することが前提でした。
番方の具体的な職としては江戸城・大坂城・二条城などの警備、または将軍を護衛する大番・書院番・小姓組番・新番・小十人組など、近衛兵らしい任務だったといえるでしょう。一方、役方では勘定奉行や町奉行などが奉職部署の代表格とされています。
天保年間(1830~1844)時で、旗本が就ける役職は182種にのぼりましたが、それぞれの格式によって「御目見以上の役」「布衣(ほい)の役」「諸大夫の役」に分けられました。
御目見以上の役については、旗本がそもそも将軍に謁見できる身分でしたが、御家人がこの役職に3度就任することで旗本に昇進する道が開かれたともいいます。
布衣の役は六位相当とされ、目付などが代表的な役職でした。昇進して従五位下に叙任されると朝廷での殿上人となる諸大夫の役に就くことができるようになります。
諸大夫の役には勘定奉行・江戸町奉行・大目付・小姓組番頭・書院番頭などがありました。しかし旗本のすべてが役職についていたわけではなく、およそ4割は無役の状態でした。
家禄が固定化される傾向と、武家ならではの典礼などからくる支出の多さから、旗本もまた生活に窮乏するものが多かったことが知られています。そのため、平時から軍規通りの家臣を雇用するゆとりのあった家は、ごく限られていたと考えられています。
おわりに
幕末の革新的な軍制改革により、実力主義による将士の登用が推進されました。本来は有事の際の戦闘員となることが任務のはずの旗本でしたが、その頃には軍役を負担できる経済力をもつ者は少なく、維新直前には従軍義務が事実上撤廃されます。
かわって収益の一部を軍役金として上納する制度が生まれますが、その途中で大政奉還を迎え、幕府そのものが消滅したことは周知の通りです。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
- 『日本大百科全書』(ジャパンナレッジ版) 小学館
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