「一会桑政権」幕末の京都政界をリードした存在。一橋慶喜、会津藩、桑名藩の連合政権
- 2021/05/28
幕末の政治は京都を中心に動きます。京都にあって、政治を動かしたのが一会桑(いちかいそう)政権です。
一橋慶喜と京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬は提携。討幕派の政治参加を拒みつつ、国政の難題を解決していきます。
朝廷と幕府の信任を受けた一会桑政権でしたが、やがて薩摩藩などの討幕派が勃興。その中でも一会桑は新時代を目指して先進的な改革を断行していきました。
一会桑政権とは何者だったのか。何を目指した枠組みだったのか。一会桑について見ていきましょう。
京都守護職の設置
尊王攘夷派に握られた朝議
幕末の政治は、京都を中心に動いていました。尊王攘夷派の長州藩や土佐藩は朝廷の急進派公卿に接近。幕府から権威を奪うため、様々な工作を展開します。
京都では過激派浪士による天誅(要人の暗殺)が横行。暴行や恐喝も頻繁に起き、市中の平穏は脅かされていました。
これらの事態に対処するには、幕府の出先機関である京都所司代だけでは足りません。そこで文久2(1862)年、より強大な権力を有する京都守護職が新設され、会津藩主・松平容保がその任に着きました。
なぜ? 会津藩主・松平容保が京都守護職に就任した理由
京都守護職は非常に大きな権限を持つ役職です。大坂城代や京都所司代よりも上位とされ、畿内の諸藩の軍事的指揮を許されていました。
京都守護職に会津藩主の容保が任命されたのには、理由があります。会津藩は文化4(1807)年から同6(1809)年にかけて、樺太や宗谷岬、利尻島に軍勢を駐屯させた経験がありました。ロシアの襲来に備えるためです。
文化7(1810)年には江戸湾の警備を担当。
弘化4(1847)年には藩主・松平容敬(容保の先代)が台場の警備を任されています。
容保の代となってからも、海上警備の任は続いていました。嘉永7(1854)年、ペリーの黒船艦隊来航によって海上の台場が造成。会津藩は第二台場の防衛を任されています。
会津藩は警備任務において十分な実績があり、幕府からも絶大な信頼を受けていました。
当初、度重なる警備任務等により財政が困窮状態にあったため、容保は就任要請を再三に渡って固辞していました。しかし政事総裁職・松平春嶽が会津藩の家訓(かきん)を根拠に協力を求めたことで、容保はやむなく承諾しています。
一会桑政権の樹立
会津と薩摩が同盟!? 八月十八日の政変
文久3(1863)年、三条ら急進派公卿は孝明天皇による大和行幸を画策。攘夷親征と討幕が計画されていました。
中川宮朝彦親王は天皇の意を受けて、三条や長州藩の排除に動きます。
同年8月、会津藩は薩摩藩と同盟を締結。御所の警備を勤めていた長州藩兵と、三条実美らを御所から追放します。世にいう八月十八日の政変です。
同年10月から12月には、公武合体派の諸侯により参預会議が結成。容保や慶喜もその一員として国政に参画することとなります。
しかし会議では薩摩藩の国父・島津久光と慶喜による主導権争いが勃発。
翌元治元(1864)年3月には、全員が辞表を提出して瓦解しています。
しかしこれが新たな政治的転換点となりました。
同月、慶喜は将軍後見職を辞任。代わりに新設された禁裏御守衛総督に就任しました。
禁裏御守衛総督は京都御所の警備を担当する役職です。慶喜は朝廷から任命されており、公式に「官軍」として認定されていました。
桑名藩主・松平定敬が京都所司代となる
4月、桑名藩主・松平定敬が京都所司代に就任。慶喜・容保と連携して京都の治安を維持していくこととなりました。
京都所司代は京都を中心とした地域の行政長官です。京都の治安維持をはじめ、公家や西国大名を監視。畿内をはじめ8カ国の民政を総括する立場でした。
定敬は容保の実弟です。幕末の政局をリードした高須四兄弟(他に前尾張藩主・徳川慶勝とのちの一橋徳川家当主・徳川茂栄)の一員としても知られています。
連合政権「一会桑(一橋+会津+桑名)」の誕生
このとき、一橋家徳川家・会津藩・桑名藩の協力関係が構築されました。「一会桑」と呼ばれる政権の誕生です。
一会桑政権は孝明天皇や二条斉敬らと協調しつつ、幕府とも絶妙な距離を取っています。
三者はいずれも徳川一門の人間です。当然幕府勢力を代表する役割を果たす動きを取っていました。
しかし同時に朝廷と密接な関係を結びます。薩摩藩など諸藩の国政参加を排除しつつ、国政の指導的地位を確立していました。
慶喜は将軍後見職を辞して禁裏御守衛総督に就任することで、幕府とは疎遠な状況に陥ります。
幕府との繋ぎ役になったのが会津藩でした。
会津藩主は代々溜間詰です。政治において意見できる立場でした。
容保は孝明天皇の絶大な信頼を受けつつ、幕府上層部とも連絡を密にしていきます。
幕府政治を掌握する
池田屋事件と禁門の変で主導的立場となる
この年の6月には、池田屋事件が発生します。
新選組は京都大火を企てた尊攘派浪士を襲撃。一網打尽にすることに成功しました。
一会桑も諸藩兵を動員して包囲網を敷き、多数の不逞浪士の捕縛に貢献しています。
しかし池田屋事件は長州藩の尊王攘夷派をいきり立たせます。
同年7月には長州藩が挙兵。京都に進撃して御所に発砲するという事態に発展しました。
世にいう禁門の変です。
一会桑は新選組や諸藩兵を指揮し、長州藩士・来島又兵衛を討ち取ります。
敗残兵を天王山に追い込むと、尊攘派の領袖の一人・真木和泉を自害に追い込みました。
結果、禁門の変により、長州藩は朝敵に指定されます。
さらに一会桑は長州征伐の実行を主導し、国政の決定権を行使し続けていきました。
長州藩では京都を追った薩摩と会津を敵視。「薩賊会奸」と履物の裏に書いてあるったと伝わります。
一会桑政権の全盛期
慶応元(1865)年4月、朝廷における武家に関する評議は全て一会桑との会議で決定するという原則が制定されます。一会桑は事実上の新政府として機能していました。
実際に国政においても懸案事項を解決することになります。
同年10月、安政五カ国条約(米・蘭・露・英・仏)の勅許を朝廷から獲得。違勅状態は解消されることになりました。
破約(条約破棄)攘夷が完全に頓挫し、尊王攘夷派が幕府を糾弾する理由を失った瞬間です。
一会桑は完全に討幕派を押さえ込んでいました。
慶喜や容保の政治手腕は幕府中央部にも浸透していきます。
同年には幕府老中に一会桑と近い小笠原長行と板倉勝静が就任。一会桑が実質的に幕府政治を掌握することに成功してます。
王政復古
長州征伐の敗北と一会桑政権の動揺
慶応2(1866)年、一会桑政権の下で第二次長州征伐が実行されました。
しかし薩摩藩は長州藩と同盟を締結したため、出兵を拒否。幕府軍は各地で負け続けることになります。
さらに戦陣の中、7月に将軍・家茂が大坂城で病没しました。
情勢は一気に幕府軍に不利となります。
慶喜は長州藩と休戦協定を結び、戦を終わらせる道を模索。朝廷から詔勅を引き出します。
しかし停戦に対しては、大きな反発が巻き起こりました。
一会桑政権に近い朝廷上層部の公卿や会津藩や桑名藩が強硬に反対。長州征伐の続行を主張しました。
休戦となれば、長州征伐における幕府軍の敗北が決定します。
幕府の権威が低下すれば、一会桑政権にも影響が出ることは必至でした。
引いては国政の遂行にも関わる問題です。
しかし慶喜は反対を押し切って停戦協定を締結。長州征伐は事実上の幕府方の敗戦という形で集結しました。
一会桑に近い者たちの中には、抗議を行う者も現れます。
9月に関白・二条斉敬が反発して参内を一時的に停止。10月には松平容保が京都守護職の辞職願を提出する事態に発展します。
一会桑政権内においても不協和音が生じていました。
大政奉還と一会桑政権の消滅
同年12月、慶喜は徳川宗家の家督を相続。同時に将軍宣下を受けて征夷大将軍となりました。
一会桑政権は幕府の枢要な位置を独占。同時に慶喜は諸侯会議にシフトしていきます。
しかし一会桑政権の枠組みは維持されたままでした。
翌慶応3(1867)年5月に四侯会議が開催。薩摩藩は雄藩連合側で主導権を握ろうと画策します。
当時は長州征伐の敗戦により、討幕側の公家や諸藩が活発に動いていました。
公家の岩倉具視も薩摩藩の大久保一蔵(利通)らと結び、討幕を狙っていたのです。
しかし慶喜はこれを見越していました。
四侯会議と同時期にに慶喜は慶応の改革を断行。五局体制を確立して議院内閣制度を導入してます。
さらに慶喜は四侯会議において、薩摩藩に政治的勝利を収めます。
これによって主導権は再び慶喜や一会桑が握ることとなりました。
同年10月、慶喜は朝廷に大政奉還を実行します。
しかし慶喜は将軍職を辞職せず、京都守護職もそのまま存在していました。
一会桑は新体制において新たな政府の骨格だったと言えます。
慶喜は正当性を担保したまま、朝廷から新政府の長に任命されることを企図していました。
しかし同年12月に王政復古の大号令が発令。
将軍職と京都守護職は廃止され、一会桑政権の正当性は否定されました。
慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。薩長の新政府は錦の御旗を掲げて官軍となります。
慶喜や容保、定敬は大坂城から船で江戸に撤退。一会桑政権は完全に潰えることとなりました。
【主な参考文献】
- 家近良樹 『江戸幕府崩壊 孝明天皇と一会桑』 講談社 2014年
- 井上勲 『王政復古ー慶応3年12月9日の政変』 中央公論新社 1991年
- 千葉県富津市HP 江戸湾・東京湾防備史年表
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