「千葉周作」北辰一刀流開祖!現代剣道へとつながる、剣術の大改革者

 剣術といえば日本の武術史における代表的な格技ですが、かつては星の数と例えられるほど多くの流派が存在していました。それらの一部には古武道として現代に伝えられているものがあり、文芸やメディア作品などから特によく知られる流派というものがありますが、北辰一刀流はその一つではないでしょうか。

 江戸時代後期に創始された比較的新しい剣術流派ですが、幕末には「江戸三大道場」の一角に数えられるほどの隆盛を誇りました。また、合理的な教授法から多くの名剣士を育て上げ、江戸遊学中の坂本龍馬や渋沢栄一などの人材が当流を学んだことが知られています。

 その開祖が千葉周作(ちば しゅうさく)です。一代で北辰一刀流を、歴史に残る流派に育て上げた剣術家です。彼の名はあまりにも有名ですが、意外なことにその出自や幼少期のことは正確には伝わっていません。今回は周作の生涯について、従来の説と近年の新説とを比較しつつ概観してみましょう。

出生についての諸説

 千葉周作は諱を観、字(あざな)を成政、号を屠龍といいました。先述の通りその出生については不明な点が多く、いまだ決定的な定説はない状態といえます。

 『国史大辞典』の記述によると、寛政6年(1794)元日に千葉幸右衛門成胤の次男として陸前国栗原郡花山村荒谷(現在の宮城県栗原市)に生を受けたとしています。一方で、北辰一刀流を伝える玄武館の公式ホームページには、現在の岩手県陸前高田市の出身とも記されています。

 しかし周作自身が後年に自身の出自を多く語らなかったこと、そして水戸藩に提出した系図や流派の免状に記した伝系図なども相互に差異があり、正確なことはわかっていません。近年の研究では周作の出生を現在の宮城県気仙沼市本郷とし、少年時代までを現在の宮城県大崎市古川荒谷で過ごしたとする説が提示されています。

 いずれにせよ周作は東北地方出身で、幼少より北辰流あるいは北辰夢想流と呼ばれる剣術を学んだとされています。この流派の師は、周作の祖父とも在地の剣術家ともされる千葉吉之丞常成、そして父・幸右衛門だったとされています。

 実はこれらについても父祖の名や伝系を含めて詳らかではなく、研究途上のテーマといえます。しかし周作自身が後に明記しているように、彼が幼少時に学んだ剣術が北辰一刀流の起源のひとつになったとされています。


一刀流修行時代

 文化6年(1809)、幸右衛門は子らとともに江戸近郊の松戸(現在の千葉県松戸市あたり)へと移住。名を浦山寿貞と改め、馬医として生計を立てるようになります。

 15歳の周作は旗本・喜多村石見守正秀のもとに仕え、達人として知られた小野派一刀流・浅利又七郎義信に剣術を学びました。やがて剣才を発揮して頭角を現し、師・又七郎の推薦により、師祖父にあたる中西忠兵衛子正の道場へ通うようになります。

 中西忠兵衛の流派を「一刀流中西派」と呼ぶことがありますが、これは小野派との伝系の違いを現したものであり、本来はどちらも「一刀流」が正式名称でした。忠兵衛は現代剣道に繋がる防具・竹刀の改良と導入で知られ、直接打突制の稽古法発展に寄与した人物として知られています。

 周作はその力を見込まれ、浅利又七郎の娘(養女)を妻に迎えて入り婿し、浅利又一良を名乗りました。旗本の喜多村家での奉公は辞職し剣術に専念したことから、早くから職業としての剣術家の道を歩んだことになります。

北辰一刀流の創始

 浅利又七郎の婿養子となった周作は、その事実が示す通り一刀流の継承者となることを期待されたと考えられます。しかし周作自身は研究と独自の観点から、一刀流の形を改変する希望をもっていたといいます。されど伝統ある流派の文化遺産ともいえる剣術形を独断で変えることはできず、周作は独立する道を選びました。

 文政年間(1818~31)の初め頃、周作はかつて学んだ北辰夢想流(あるいは北辰流)と一刀流を融合させ、自身の流派を北辰一刀流と命名しました。新興流派の主である周作は、草創期の普及活動では他流派の妨害にあうなどのトラブルもありましたが、やがて門弟も増え剣名は高まっていきます。

 文政5年(1822)、江戸・日本橋品川町に自身の道場を開設し「玄武館」と名付けました。その後、神田於玉ヶ池に移転しています。

千葉周作道場 玄武館跡
玄武館跡(東京都千代田区神田東松下町。出所:wikipedia

 ちなみにこの道統を受け継ぐ玄武館は、現在は東京都杉並区の本部道場を中心として関東周辺、または海外にも支部を設けて活動しています。

 周作の北辰一刀流は、歴史に名を残す多くの人物が修行したことが知られています。冒頭の坂本龍馬や渋沢栄一をはじめ、浪士組創設者・清河八郎や新撰組総長・山南敬助、戊辰戦争でその剣技を称えられた森要蔵等々、そうそうたる顔ぶれが名を連ねています。

 北辰一刀流が周作一代で大発展した要因のひとつに、「教授法の明快さ」が挙げられます。現代武道ではその多くが「段位」という基準を設けていますが、古流の武術では修行の段階ごとに細かく階梯が設けられているのが常でした。

 幕末当時では士分だけではなく町人・農民も剣術を嗜むことが一般的でしたが、階梯が上がるごとに発生する束脩(礼金)や祝いの費用など、庶民には大きな負担となっていました。また、伝統流派にはある種の秘密主義をもって技を伝えていくならわしも多く、全容を知ることができるのはごく限られた人物だけというのが普通でした。

 周作は当時の武道家としてもかなり合理的な考え方の持ち主だったようで、修行の階梯をたったの三段階に整理。剣術の極意を「夫剣者瞬息心気力一致」というわかりやすい言葉で表しました。

 北辰一刀流における伝承の階梯は、以下の通りです。

  • 初目録
  • 中目録免許
  • 大目録皆伝

 小野派一刀流における階梯が8段階にわかれていたことを考慮すると、その短さがよくわかります。もっともどちらがより優れているかという議論ではなく、剣術を学ぶための裾野を大きく広げた功績が着目されています。

 極意に関する言葉についても口語訳すると、「素早く呼吸をして、心・気・力を一致させる」という非常にシンプルなものとなります。これは現代剣道で「気・剣・体の一致」といわれることに通じる教えで、誰にでもわかるような言葉で剣術のノウハウを伝えることにも工夫を凝らしました。

 当時の剣術流派では防具・竹刀を用いた稽古法も徐々に浸透していましたが、北辰一刀流では特にこれを積極的に採用したため、現代武道である剣道の形成に大きな影響を与えました。

水戸藩仕官時代~最期

 周作は天保6年(1835)、水戸藩校・弘道館において北辰一刀流の出張教授を行い、高い評価を受けました。これに注目した徳川斉昭の招きにより、天保10年(1839)に水戸藩剣術師範に就任。天保12年(1841)には馬廻役に登用され、100石の扶持を受ける身分となりました。

 馬廻といえば主君の親衛隊ともいえる騎馬の士分であり、幕末期には形骸化していた面はあるものの周作のそれは、当時としては上士相当の高待遇であったことがうかがえます。周作の次男・栄次郎、三男・道三郎も水戸藩馬廻を務め、多くの門弟を育成しました。

 周作は安政2年(1855)12月13日、61年の生涯を閉じ、戒名は「高名院勇誉智底敬寅居士」といいます。当初は江戸・浅草の誓願寺内仁寿院に葬られ、現在は東京都豊島区巣鴨の本妙寺境内に墓があります。

東京都豊島区本妙寺にある千葉周作の墓
東京都豊島区本妙寺にある千葉周作の墓(出所:wikipedia

おわりに

 剣術から剣道へと移行していく時代の改革者ともいえる千葉周作。その跡は三男・道三郎が受け継ぎ、脈々と現代にまで伝わっています。いまも多くの修行者が周作の剣を慕い、北辰一刀流門下として稽古に励んでいます。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
  • 『歴史群像シリーズ 日本の剣術』 歴史群像編集部 編 2005 学習研究社
  • 北辰一刀流 玄武館

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。