「高島秋帆」無実の罪での幽閉11年! 長崎の町役人から幕臣に転身した稀代の砲術家

外国船の来航によって、日本における泰平の時代は終わりを告げます。
幕府の権威は大きく低下。新時代を生き抜くために、日本全体に大きな変革が求められました。
そんな時、長崎から出て日本の開化政策を主導した男が現れます。町年寄で砲術家の高島秋帆(たかしま しゅうはん)です。


秋帆は優れた見識や手腕を幕府に認められますが、無実の罪によって投獄。11年の長きにわたって幽閉されました。
出獄後には幕府のブレーンとして登用され、多くの人間に最先端の砲術を享受していきます。

秋帆はどのように生き、何を信じて戦ったのでしょうか。高島秋帆の生涯を見ていきましょう。


砲術家の系譜

長崎の町年寄の家に生まれる

寛政10(1798)年、高島秋帆は長崎町年寄・高島四郎兵衛茂起の三男として生を受けました。諱は茂敦といい、秋帆は号にあたります。


高島家は近江国高島郡高島荘を発祥とする一族です。同家は戦国時代に長崎に移住して以降、長崎の町年寄(まちどしより)を代々世襲してきた家柄でした。


町年寄とは、町奉行の下で町政を司る役人です。奉行の御触や指令の伝達を行い、消防や交通など町政全般を取り仕切りました。


通常の町役人とは違い、高島家は潤沢な資産に恵まれています。
脇荷貿易(個人的貿易)で潤い、十万石の大名に匹敵するほどの富を蓄えたといいます。長崎の大村町には広さ1024坪の邸宅を構えていました。


平穏な時代であれば、安穏な暮らしが送れたはずです。しかし18世紀末の日本近海には、次々と外国船が出没。長崎では特に外国への危機意識が強くありました。


砲台のイラスト

秋帆の父・四郎兵衛は、長崎港にある出島の台場(砲台)を任されていました。四郎兵衛は荻野流砲術家・坂本孫之進に学んで砲術を極めています。


秋帆も早くから父・四郎兵衛から荻野流砲術を学び、自身も皆伝を受けるほどの腕前でした。


領主や代官に西洋砲術を教授する

文化11(1814)年、秋帆は高島家の家督を十七歳で相続します。町年寄見習となって台場を任され、後には長崎会所調役頭取となっています。


秋帆は町年寄や鉄砲方を勤める一方で、大きな危機感を抱いていました。日本は鎖国によって欧州文化の流入が途絶えています。
当然、日本の砲術の進化は止まり、西洋砲術に大きな遅れを取っていました。当時の日本の砲術は軽砲に限定されています。これでは武装した外国の軍艦には歯が立ちません。


秋帆は長崎在留のオランダ砲兵士官の下で学びます。四年の間にオランダ語をはじめとして、兵器学や戦術などを身につけるました。
しかしこれで飽き足らず、私費で砲術に関する文献や大砲、砲弾や小銃などを買い漁ります。これは外国から輸入したものでした。


天保3-10(1832-40)年の8年間に、前装式野砲6門、前装式臼砲4門、前装式榴弾砲3門、小銃350挺を購入。これらの大砲は全て滑空砲(ライフリングが施されていない大砲)で、砲弾は鉄円弾でした。


天保5(1834)年、秋帆は高島流砲術を完成させます。全国から門人を集め、砲術の教授を行いました。
同年には、佐賀の武雄領主・鍋島茂義が入門。翌天保6(1835)年には、茂義に免許皆伝を与え、モルチール砲を献上しています。



天保11(1840)年には、門人の数は300人を超えました。伊豆国韮山代官・江川太郎左衛門(坦庵)や幕臣・下曾根信敦も入門。秋帆は日本でも指折りの砲術指導者となっていました。


幕府からの信頼と弾圧

西洋砲術の公開演習を行う

やがて日本に衝撃的な報告がもたらされます。清国がイギリスとアヘン戦争で戦い、敗北したというのです。
これにより、西洋諸国が東アジアへの進出する可能性が飛躍的に高まりました。


秋帆は『オランダ風説書』を通して、清国の敗因を冷静に分析します。その結果、武器の相違と優劣が清英両国の勝敗を分けたとの結論に至りました。


天保11(1841)年、秋帆は長崎奉行・田口加賀守を通して幕府に上書(天保上書)を提出。これには「洋砲採用の建議」が盛り込まれていました。大砲の近代化と兵制改革を訴えた内容です。


天保12(1842)年には実際に行動に起こしています。
武蔵国徳丸ヶ原において、日本初の洋式砲術と洋式銃陣の訓練を公開演習形式で行いました。


天保12年の日本初の洋式砲術・銃陣演習の様子を描いたもの(板橋区立郷土資料館 蔵)
天保12年の日本初の洋式砲術・銃陣演習の様子を描いたもの(板橋区立郷土資料館 蔵)

これは幕府の命によるものです。訓練は、砲兵・騎兵、そして歩兵による銃陣(銃で武装した兵隊からなる陣)を行っています。


秋帆は装束に筒袖に裁着袴(たっつけばかま)、頭には黒塗円錐形の銃陣笠を着用して臨んでいます。検分した幕府の役人は「異様之冠物」と称しています。


この演習には、秋帆とその門人たち総勢百人が参加。老中・水野忠邦らが検分者として見学し、多数の大名関係者や蘭学者、砲術家や江戸の住民らが訪れています。その人数は一千人を数えたと言われています。


公開演習は無事成功に終わります。大砲の不発は一度もなく、秋帆所有の大砲は幕府買い上げとなりました。さらに幕府からは、演習の功績として銀500枚が与えられています。


実は東京都板橋区の「高島平」の地名の由来はこの訓練にありました。昭和44(1969)年に、この訓練地は高島秋帆にちなんで「高島平」と名付けられています。


演習の後、秋帆は幕府から砲術家として絶大な信頼を得ました。
老中・阿部正弘は「火技中興洋兵開基」と秋帆を高く称賛。秋帆は幕臣にも高島流砲術を教授する立場となります。


無実の罪を着せられて幽閉生活へ

天保13(1842)年、秋帆の人生は突如として暗転を迎えます。
秋帆は長崎奉行・伊沢政義の手によって捕縛、投獄されてしまいます。


捕縛の理由は、長崎会所のずさんな運営というものでした。秋帆が会所調役頭取であったために責任を問われた形です。
この結果、高島家はお家断絶が決まります。


これは幕府の一部によって仕組まれた事件でした。
幕府目付・鳥居耀蔵(伊沢政義の舅)は蘭学者を敵視する人物です。耀蔵は洋式軍備に明るく、豊富な資金力を持つ秋帆を危険視しました。そこで鳥居は伊沢と組み、秋帆の捕縛に踏み切ったというのです。


鳥居は小伝馬町牢屋敷で直々に秋帆の取り調べを行います。
ここで秋帆に「密貿易」と「謀反」という罪を着せ、断罪しようという目論みがありました。


徹底した鳥居のやり方には理由があります。鳥居の背後には、老中・水野忠邦の存在がありました。
当時は水野主導による天保の改革が行われていた時期です。そこで長崎会所の経理の乱脈が大きな問題となります。これは銅座における精銅の生産に影響する恐れがありました。


秋帆は死罪を免れますが、身柄を武蔵国の岡部藩に移され、そのまま幽閉されました。しかし諸藩は密かに秋帆に接触。秋帆は幽閉状態のまま、彼らに洋式兵学の教授を行ったようです。


このことから幽閉の身ながら完全な軟禁状態ではなかったと考えられます。実際に秋帆は岡部藩で客分扱いとされ、藩士にも兵学の教授を行いました。


さらにこの岡部藩で、新たな出会いもあったようです。
岡部藩領には血洗島という村があります。この村は、かの有名な渋沢栄一が生まれ育った村でした。
秋帆は岡部藩に幽閉されていた時、渋沢と面識を持ったようです。


渋沢栄一の肖像写真
「近代日本経済の父」と言われる渋沢栄一。

大正10(1921)年には、高島平に「高島秋帆先生紀功碑」が建てられました。その際、渋沢も企画に賛同した上で寄付をしています。


日本の軍備と経済の基礎を築いた二人は、どのように出会い何を語り合ったのでしょうか。


幕臣として後進を育成する

罪人から幕臣に取り立てられる

秋帆の門人である江川太郎左衛門らは、幕府に赦免を願い続けていました。やがてその運動が結実する時が訪れます。


嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリーの黒船艦隊が来航。幕府はペリーの求めに応じ、開国政策に舵を切ります。


1854年、日本に再上陸(横浜)したペリー一行(ヴィルヘルム・ハイネ 画)
1854年、日本に再上陸(横浜)したときのペリー一行(ヴィルヘルム・ハイネ 画)

対応に当たったのは、当時の老中首座・阿部正弘でした。
阿部は本土防衛のための砲台建設を急務と考えます。そこでかねてから評価していた秋帆に赦免を言い渡しました。


秋帆は11年ぶりに出獄。自由の身となりました。その上で海防掛御用取扱の役職を拝命し、江川太郎左衛門の手付(下役人)の地位を与えられています。かつては罪人扱いされた秋帆が、今度は幕臣に取り立てられたのです。


当時は攘夷論が根強く、開国政策は忌み嫌われていた時代です。批判や迫害は勿論、暗殺の対象とさえなっていました。そうした中でも秋帆は臆せず、幕府に対して鎖国政策の誤りを述べます。さらに開国と通商を行うべきだと主張した『嘉永上書』を幕府に提出しました。


兵制改革の先駆け

当時、幕府は外圧に対抗すべく、本格的な西洋式軍隊の創設を目指していました。自然、西洋兵学の実務教育が重要視されます。


秋帆は幕府講武所(武芸訓練機関)において、砲術師範を拝命。講武所教授方頭取、講武所奉行支配などを勤めるに至ります。
いわば砲術家として公的な立場で後進の指導と育成を行う立場となりました。


砲術の重要性は、既に全国の諸藩が認識するところです。
幕府は80門の大砲を入手。嘉永7(1854)年の段階では、全国の大名家221家に合計1374門の大砲があったと伝わります。


その最先端にいたのが秋帆でした。元治元(1864)年には、兵学の教練書『歩操新式』を編纂。この頃の秋帆は、日本における兵制改革の先駆けとも言える存在です。


一方で秋帆の暮らしは慎ましやかなものでした。
妻子を江戸に呼んで長屋住まいをしていたようです。十万石の大名に匹敵すると言われた町年寄の身分には戻らず、質素な暮らしを続けていました。


しかしほどなくして、妻子と孫に先立たれてしまいます。そして慶応2(1865)年、秋帆は世を去りました。享年六十九。戒名は皎月院殿碧水秋帆居士。墓所は大円寺にあります。



【主な参考文献】
  • 埼玉県深谷市HP 「高島秋帆」
  • 水野大樹『図解 火砲』 新紀元社 2013年
  • 幕末研究会『幕末維新人物事典』新紀元社 2004年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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